1、高柳光壽氏の野望説

 

 高柳光壽(みつとし)氏の著書『戦国の人々』『本能寺の変・山崎の戦』によれば、明智光秀の謀反の動機は、「天下を取ろうとの野望」であると書かれている。

 まず高柳氏は従来いわれてきた怨恨説を徹底的に批判している。それは

1、光秀の母の磔(『総見記(そうけんき)』)
2、家康饗応
(きょうおう)の解任(『川角太閤記(かわすみたいこうき)』)
3、斎藤利三
(としみつ)の一件(『続武者物語』)
4、庚申待
(こうしんまち)の夜の事件(『義残後覚(ぎざんこうかく)』)
5、法華寺の事件(『祖父物語』)
6、光秀の奥さんが信長に抱きつかれ、信長を扇で撃った事件(『落穂雑談一言集』)などである。

 @はドラマお馴染みの、八上城攻めで信長が約束を破りそれによって人質の光秀の母を殺したというもの。Aは1582年武田征伐の恩賞をお礼に来た家康の饗応役に任命されたが、魚が腐っていて解任され、怨みをもったもので、Bは光秀重臣の斎藤利三を稲葉一鉄に返せと信長に命じられたが、断り折檻された事件。Cは信長は終夜酒宴を行い、光秀が小用でたったとき槍を突きつけて脅したもの、Dは甲州征伐で光秀が「我らも日頃骨を折った甲斐があって」と言ったのを信長が頭を欄干(らんかん)に押しつけ打擲したもの。Eは信長がこれを怨みに持ち、光秀に度々恥をかかせたというものである。

 この一連の話について 「価値のある説は一つもないのであって、要するにそれは後人の想像に過ぎずしかも事情にほとんど通じない、いってみれば一知半解の説というべきである。」 といい、全て史料の名を出しながら事実でないことを説明している。

 また光秀は謀反の陰謀をめぐらしていたが露見しそうになったので本能寺の変をおこした、という『甲陽軍鑑』、『林鐘談』の話(武田に通じていた、とある)を「とんでもない説」と位置づけして、『細川家記』で「武田に通じたことがばれてしまうのを怖れて謀反した」とあるのを単なる想像だとして一蹴している。
 そして新井白石の『白石純書』に井戸良弘に願望が叶ったとき、国をやろうといっていたことを出して、一朝一夕の計画ではないともいっている。しかし高柳氏自身『白石純書』の信頼性に疑問を投げかけている。また『老人雑話』に丹波に周山城を築き、自分を周の文王になぞなえ、信長を殷の紂王になぞらえたという説を否定している。
 そこから高柳氏は野望説を進展させ、このように述べている。(所々要約)

「(秀吉に山陰道は押さえられてしまい)おれはどこで働く事になるのか。こんどは(丹羽)長秀の四国征伐だ。長宗我部に対する俺の面目はどうなるのか。どうも最近の形勢では俺よりも秀吉の方が景気がよい。何とかして秀吉をやっつける方法はないものかな。いや待てよ。秀吉をやっつけるより、信長をやっつけたらどんなことになるだろう。俺は信長の大将で満足するような男か。情けないではないか。そうだ、天下を取ってみたらどんなものか。男子の本懐ではないか。俺は国を出たときからそれを夢見ていたではないか。」

「夢か。夢なものか。現実だ。今信長は近習ばかりで無防備の本能寺にいる。(丹羽長秀、徳川家康、柴田勝家、羽柴秀吉がすぐ戻ってこれない事をいう)」

「信長のあの気性では将来の安全は期しがたい。もう不安に耐えられない。それに男になるのだ。それには今またとない機会ではないか。立て、光秀よ。何を躊躇しているのだ。俺がほんとうにやれば天下はとれるのだ。しっかりせよ。さあ立ち上がれ。」

「天下に号令する、これは男子の本懐でなければならない。学者や芸術家には他に生きる道がある。けれども政治家とか軍人とかにしてみれば、それが最高の最大の目的であるはずである。いつまでも他の願使に甘んじていることは少しでも気骨のある者には我慢ができないはずである。信長に取って代わりたい。取って代わりうる。今はその時期だ。これが本能寺の変の原因であったと思う。」

 ここでは、自分の活動範囲であるはすの四国方面が丹羽長秀に任され、秀吉を援助することだけが自分の仕事だということに不安を感じていたかもしれないとも述べ、〔先行き不安説〕にある程度理解も示している。