9、公式問題(三職推任)
これが一番難しい問題である。公武問題は文章の解釈次第で正反対の論文が出されているのである。そして非常に幅が広く全てやっていると、日が暮れてしまうからここでは本能寺の変の直前にあった82年4月の三職推任に絞ってごく簡単に説明する。 三職推任とは82年4月、朝廷からの使者が来て信長を三職(太政大臣・関白・征夷大将軍)に推任したものである。それについて信長からの圧力か、それとも朝廷からのプレゼントなのかで意見が分かれている。 |
三職推任 | 朝廷から | 信長側から求めた |
主張者(主張) | 堀新※12・小和田哲男 (悪逆非道防止説) |
立花京子 (朝廷黒幕説) |
三職推任の主体を信長側にあったと考える立花京子氏は次を根拠にしている。 |
廿五日天晴。村井所へ参候。安土へ女はうしゆ御したく候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候(しかるべくそうろうよしもうされそうろう)。その由申入候。 (『日々記』(にちにちき)4月25日) |
この傍線部の「被申候(もうされそうろう)」の「被(敬語)」が誰につくのかを、立花氏は織田方の京都奉行・村井貞勝(むらいさだかつ)だとしている。理由として天皇・親王は「仰す」、勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)(『日々記』作者)自身には使わない、村井に使われている例が四例ほどあることを挙げている。その村井は信長の意志を受けていた、と考える。 また勧修寺晴豊はその時の勅使であることを「余勅使」(『日々記』)とあることから主張している。そして「将軍になさるべき」(『日々記』)と信長からの使者に主旨を問われたときに答えたのは、晴豊の個人的見解ではない、としている。信長は公武の頂点を目指しており、この話の目的は推任勅使の派遣にあった。 その一方堀新氏らは「朝廷からのプレゼント説」を唱えている。三職推任は武田氏滅亡をお祝いする朝廷からの最大級のプレゼントだとしている。そして三職のどれかという曖昧な推任になったのは村井貞勝も含めてだれも信長の意向を知らなかったためだとしている。「将軍になさるべき」は晴豊の個人的な見解である。 |
以上が三職推任の概論であるが、論文の論理的には立花氏の方が史料に基づくところが多く、優れているように思う。そうすると、三職推任も信長の意図、となるのだが、それにしてもなぜこの時期なのか、よくわからない。官職を辞していた信長がなぜこういうことをしたのか。朝廷が主体とする説は根拠は多少弱いのだが、信長をつなぎ止めようとしたと考えるとありえないこともない。 要するにここも両方考えられる、ということだ。判断は読者の皆さんに委ねる。 |