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7、森文書の年代比定
なおもって、急度(きっと)御入洛の義、御馳走(ちそう)肝要に候。委細(闕字(けつじ)※10)上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せの如く、いまだ申し通せず候ところに、(闕字(けつじ))上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども(平出)
御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事、
一、その国の儀(紀州惣国(そうこく)一揆)、御入魂あるべき旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
一、高野・根来(ねごろ)・そこもとの衆(雑賀(さいが)衆)相談せられ、泉・河(和泉・河内)に至り御出勢もっともに候、知行などの儀、年寄をもって国を申し談じ、後々まで互いに入魂遁れがたき様、相談すべき事、
一、江州・濃州(のうしゅう)※11(近江・美濃)ことごとく平均申し付け、覚悟に任せ候、御気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言(きょうきょうきんげん)、 六月十二日 光秀(花押) |
足利義昭黒幕説を主張する藤田達生氏が引用し、重大視している文書がこの森文書である。(東京大学史料編纂所(へんさんじょ)架蔵(かぞう)・影写本)これは6月12日に光秀が雑賀衆(さいがしゅう)の中心人物・土橋平尉(へいのじょう)に宛てたものである。冒頭に「年代比定」と言う言葉が出てきた。読者の方々はこんな言葉聞いたことがないであろう。これは何年の手紙かがわからないものを文脈から他の歴史的事実に照らし合わせて年代を推定する事である。さてこの文書、日付が分かっても年代がわかっていない。この文書の比定については三つ解釈が出ている。 |
手紙は何年? | 1577(天正5)年 | 1578年か79年 | 1582年 |
主張者(主張) | 奥野高広 (織田信長文書の研究) |
立花京子 (朝廷黒幕説) |
藤田達生 (義昭黒幕説) |
奥野氏は、信長の和歌山雑賀攻め(1577年)の関連文書と見ている。傍線部の所を近江・美濃で一向一揆の蜂起したのだろう、と読んでいる。 立花氏は光秀の花押の形から78年から79年だとしている。花押の読み方について歴史研究会では詳しいものがいない。 藤田達生氏は、雑賀攻撃は2~3月に行われたもので6月に反信長派である土橋に光秀が援軍を求めるとは考えられない、としている。そして傍線部分は77年と比定することは不可能であり、これは本能寺の変直後の光秀方の美濃・近江の制圧に照応する、としている。 |
これについては電話で史家の鈴木眞哉先生に伺(うかが)ってみたのだが、文脈から見れば82年つまり本能寺の変の関連文書として考えていい、とおっしゃっていた。確かに傍線部の内容を見ると、77年当時に「平均」するのは変である。奥野氏は一揆だといっているが根拠が明確でない。この文書の最後に「惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)」とある。この名乗りをするのは73年以降だということが明らかになっている。信長の上洛は68年。だから信長上洛の頃の光秀書状に「平均」とあるなら本能寺の変の文書ではないが、これは73年以降の文書である。73年以降で「江州・濃州」を「平均」したのは82年以外考えられない。藤田氏の雑賀攻めの時間に注目している事も説得力がある。 しかし我々を最終的に悩ましたのは「花押」という問題であった。この花押によれば78年か79年ということになる。だがそこに内容は合うのであろうか。立花氏はそこを論議しておらず、わからない。 |
ただ花押といってもそこまでひどく変わっているわけではない。ここでは藤田氏の説をとるのが妥当ではないかと考えられる。 (ちなみにこれが1582年の書状だとすると、光秀人生で最後の書状となる) |