6、秀吉が謀反を知ったといわれる書状はあったのか

 

 1582年6月2日、本能寺で信長を倒した光秀は、各国にいる織田の諸将※9がすぐ自分を討ちに戻ってこれないように反織田勢力に書状を送ったといわれる。今から挙げる書状は光秀が秀吉と対抗していた毛利家に宛てたもの、といわれている。この手紙は『別本川角太閤記(べっぽんかわすみたいこうき)』にある記事であり、手紙周辺をわかりやすく説明すると以下のようになる。
 急度(きっと)、飛激(ひげき)をもって、言上(ごんじょう)せしめ候(そうろう)。こんど、羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)こと、備中において乱妨(らんぼう)を企て候条、将軍御旗(みはた)を出だされ、三家御対陣の由、まことに御忠烈(ちゅうれつ)の至り、ながく末世に伝うべく候。然らば、光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりをいだき、遺恨(いこん)、もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長父子を誅(ちゅう)し、素懐(そかい)を達し候。かつは将軍御本意を遂げらるゝの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。この旨、宜(よろ)しく御披露(ごひろう)に預かるべきものなり。誠惶誠恐(せいこうせいきょう)

 六月二日                                        惟任日向守(光秀のこと)
 小早川左衛門佐殿

 この光秀の密書を持った使者が六月三日の深更、備中の高松(秀吉と毛利が対峙していた場所)についたが、闇夜だったため毛利と陣所を間違えてうろついていた。それを夜まわりの兵士が怪しみ、からめとって拷問にかけると光秀の使者であることを白状した。そこで体を探ると上にある書状が出てきた。

 これを読んだ秀吉がびっくりしたけど、直ちに使者の首を刎ね、毛利との講和にあたった。通説ではこれによって秀吉が本能寺の変を知った、といわれている。

 ではこの話と手紙は史実だったのだろうか。これは意見が分かれている。

 

手紙は? 史実である 史実でない
主張者(主張) 桑田忠親(怨恨説)
藤田達生(義昭黒幕説)
高柳光壽(野望説)
小和田哲男(悪逆非道防止説)
桐野作人(四国問題説)

 

 史実だとする人の中で桑田氏は、秀吉が密書を焼いた際に写本が残っていて、それが何者かの手によって伝えられたのだろう、としていて、「後人の偽作として断定するには、余りにも文章が見事である。自然味があるし理に叶っている」と絶賛し、手紙の白抜き部に注目して、怨恨説の史料として使っている。

 藤田達生氏は「内容的には概ねこのような書状が、隆景に宛てて発せられたと考えて大過ないと判断する。」と論じ、手紙の「将軍御本意〜」に注目して光秀が義昭に代わってその本意を遂げた事を、義昭に披露して頂きたいというもので、義昭の京都復帰と幕府再興という光秀の政権構想の中核を看守できる、としている。

 それに対し、反対する高柳光壽氏は「いかにも不出来で偽物であることは一目でわかる」としているが「光秀の使者が秀吉方にとらわれたということはあったかもしれない」とも言っている。小和田哲男氏は他の光秀文書の書きっぷりとこの書状の文書が著しく違う事を挙げて否定している。小和田氏・桐野氏は最後の「誠惶誠恐(せいこうせいきょう)に注目して、当時の文章としてはおかしいとしている。これは普通なら「恐々謹言」とすべきものであろう。

 この問題について歴史研究会はいろいろと考えたが、話がうまく出来過ぎている事、そして『別本川角太閤記』の信頼性の低さからいって偽文書だという結論を出した。なぜなら反対意見の方が光秀文書全体を見ての判断であり、桑田氏、高柳氏の根拠なしの判別よりも説得力があるように考えられたからである。それに「誠惶誠恐(せいこうせいきょう)」などという文書は見たことがないからである。以上からしてこの手紙は信頼できない、後人の創作というべきである。