4、光秀は国替えによって先行きに不安を抱いたか

 

 明智光秀の怨恨説や先行き不安説を主張する人の中には、以下の記事を使う人がいる。
 信長から命令を受け、出陣の準備のために自分の居城に戻った光秀のところに、信長からの使いとして青山与三(あおやまよさ)が来て「出雲・石見(いわみ)の二カ国を与える。その代わり、丹波と近江の志賀郡(光秀領)をとりあげる」光秀らは闇夜に迷う心地がして、妻子の置き場がなくなってしまうと嘆く。光秀臣下の面々は涙を流して謀反を勧める。それに光秀は従い謀反した。(『明智軍記』)
 もう一つ、これも前の記事に関連する話である。

 これは信長の三男・信孝が四国征伐へ渡航する際に光秀領である丹波・丹後の国侍に宛てた手紙(1582年5月14日)で、兵粮(ひょうろう・馬飼料・武器弾薬などをもって四国征伐に参加させようとしている。これは丹波の国主である光秀を無視していたもので丹波が信孝の支配下に入ったことを意味している。

 これをもって先ほどの『明智軍記』の記事を信頼する人はそれを裏付けている。

 

国替えの記事 事実性あり 事実性なし
主張者(主張) 小和田哲男
  (悪逆非道防止説)
桑田忠親(怨恨説)
染谷光廣(みつひろ)(義昭黒幕説)※7
根拠 小田信孝の書状 花印・当時の文書としての信頼性

 

 この話を桑田氏は「おそらく事実」として、小和田氏は「ありえた」事だと言っている。しかし染谷氏は信長の国替えは珍しい事、織田信孝の書物は偽文書の可能性が高いことによって国替え説を否定している。信長の国替えとしては前田利家を1581年9月に越前府中から能登七尾に移した事例が知られるのみで、しかも利家の息子の利長が越前府中に入っているから、国替えとは概念が違うものだという。また花押が異形で内容にも多くの疑問がある、とも言っている。

 これは染谷氏の方に軍配をあげるべきであろう。信長の国替えの例を示し、内容に注目するなど説得力がある。それに信長の命令を伝えに来た「青山与三(あおやまよさ)」という人物も実在性に問題がある。私は領地の空手形的な書状は見た事があるが、それにプラスして現在の領地を取り上げるというものは見た事がない。

 さらには国替えというのは江戸時代の概念であり、光秀の謀反から逆算したところが見えなくもない。信孝の手紙は染谷氏の言うとおり偽文書であり、すると『明智軍記』は根拠を失う。繰り返すとおり『明智軍記』は間違いだらけの末書であり、それだけでは信頼できない。

 結論を出すとこの話は信頼できない。