2、家康接待が原因になったのか

 

 1582年3月信長は甲斐の武田氏を滅ぼした。その功労者である徳川家康と穴山梅雪(ばいせつ)(武田方だったが裏切って織田・徳川の勝利をもたらした。)は二ヶ月後の5月15日に安土城に赴いた。これは家康は恩賞として駿河一国を与えられたために謝礼を述べる目的で来たものらしい。信長はその前に光秀に休息を命じたのだが、二人が来ると信長は光秀に馳走を命じた。(『多聞院(たもんいん)日記』『家忠日記』)そこに以下のような『川角太閤記(かわすみたいこうき)』の話がある。

 信長は家康の宿を光秀の所に定めて、下見にいったところ、夏の事で用意してあった魚が思いの外(ほか)傷んで悪臭が漂(ただよ)っていた。信長はこれでは家康の馳走はできないといい、家康の宿を堀秀政の所に変えた。つまり光秀は饗応(きょうおう)役を解任され、光秀は面目を失い、木具や肴の台、その他用意の肴など残りなく堀へすてた。そこで光秀は翻意を抱いた。

 この記事は怨恨説を主張する人々の中で採用されてきた。しかし桑田忠親氏(怨恨説)は「この俗説は間違っている」としている。上に挙げた各説の中で積極的に採用している人はいない。だからここで論ずるまでもないのだが、有名な話だから載せておいたのである。

 ではどうして採用されないのか。それは『信長公記(しんちょうこうき)』,『兼見卿記(かねみきょうき)』など信頼が置ける史料には光秀が立派に役目を果たした事は見えても、信長が叱責した、などという記事は全く見えないのである。光秀は3日間、饗応をしたわけだが、その後出陣の準備にかかっている。通説ではこれは羽柴秀吉を救援するためとなっている。だから光秀はそのために3日間で解任された可能性もあるわけだがそれは出陣のためであり、不手際のためではない。良質の史料を信じれば、『川角太閤記』の記述は信頼できない。