6、桐野作人氏の四国問題対立説

 

 まず桐野氏は前述した全ての説を否定している。それについては@怨恨説、A野望説などは心情に頼るものが多い、といっているものであるが、これは評価できる。次ぎに朝廷黒幕説を批判しているのだが、そこで公武関係を問題にしている。そして信長は「室町殿」といって朝廷でも武家でも高い地位を目指していて、馬揃えも天皇側の暗いムードを吹き飛ばすためだとしている。つまり公武問題はなかった、と考えている。これについては賛否両論がきれいにわかれており、ここで結論を出したり批判を加えたりするのは困難である。

 しかし桐野氏の主張に反対する論拠も賛成する論拠も根強いものであることを述べておく。

 さて桐野氏は怨恨説やら黒幕説やらを批判した後に、フロイス『日本史』の記事を持ち出してきている。これは信長が光秀を足蹴りにしたというものだが、原因は四国政策の対立だとしている。

 四国政策については「二、本能寺の変時の状況」に詳しく記したが、確かに桐野氏の言うとおり、光秀の立場は弱まっていった。というのは光秀が、はじめ取り次いでいた長宗我部の安堵領(あんどりょう)が徐々に減らされ、ついにゼロとなってしまったのである。しかもそれをゼロにした相手は誰かというと、羽柴秀吉と織田信孝を挙げている。羽柴秀吉については従来から注目されてきたが信孝については初見である。この場合信孝の行動を書状面から吟味しておりこれはある程度信頼できるのではないか。そして光秀の四国政策における立場が徐々に弱くなったことを論述して居る。

 ここまではいい。しかしである。信孝に5月7日に四国出陣命令が出たから、フロイスの記事(つまり14日に信長が光秀を足蹴にした)は光秀の不満が出て確執が起こった、としている。ここは論理の飛躍である。日付に頼るのはわかるがそれは根拠とはなり得にくいのである。

 またこのフロイスの記事自体、事実とは思われない。これについては「六,各説の整理」p.44を参照。桐野氏は宣教師の情報力は信長政権内に「食い込んでいた」とするが、その割にこの話は又聞きであり到底「食い込んでいた」などとは言えないのである。だからどうも桐野氏のいう、四国問題の対立が表面化したということは事実とは認定できぬのである。

 そして次の記事はもっとひどい。桐野氏は6月3日が信孝の四国渡海日で、本能寺の変は2日に起こったのは、それを妨害するためだった、と述べている。しかしそんなことで日付が決められるのだろうか。信孝を妨害した場合には、畿内にいる敵兵力が増えてしまうのである。それよりは信孝出陣後に本能寺の変を起こした方が政権が安定するであろうし、反信長勢力に足止めしてもらった方が光秀のためになる。そんな日付などでわざわざ自分が不利になることをするのであろうか。この桐野氏の考えはどうも信じかねるのである。

 また桐野氏は光秀と信長の確執が起こったのは、このフロイスの記事だとしてその傍証として『兼見卿記(かねみきょうき)』が空白であることを挙げている。『兼見卿記』は光秀と親しい神官・吉田兼見の日記である。すなわちフロイスの記事は14日頃の事で、『兼見卿記』に17日から4日間空白なのは、この事があまりに重大だったからだとしている。繰り返すが、どうして空白部分が勝手にこう読まれるのか。空白部分の読み方を勝手に創り出すのは止めて欲しいものである。