5、小和田哲男氏の信長の悪逆非道防止説

 

 小和田氏は、その著書『明智光秀〜つくられた謀反人〜』の到ることろで、光秀が土岐源氏の出身としてアイデンティティを持って行動していた、と述べているがこれはどうも結論が先走りしている印章がある。

 小和田氏の光秀の出自についての考察は良質の史料に基づいており信憑性がある。「とき随分衆也(ずいぶんのしゅうなり)」とあるのを採用しているのはいい。しかし光秀の父親の名はどうやってもはっきりしないのである。つまり家は高くても父の代には没落していたと言うことか。ここまでは史料に基づいている。しかしそこから光秀が土岐氏としてのアイデンティティを持っていた、とどうして短絡的につなげてしまうのか。光秀がそういう書状を出すなど証拠が残っているならありえるかもしれないが、そんな証拠みたことないのである。挙げているとすれば、愛宕百韻(あたごひゃくいん)の「時は今天がしたしる五月哉(かな)」で、横暴な平氏を源氏が討つ、と読んでいるところである。そもそも和歌には色々な読み方があり、どうもこの発句の解釈は本能寺の変の結果から逆算的に出されるような傾向がある。この横暴な平氏云々というのは、ありえるかもしれないが、決定的な証拠にはならない。光秀が土岐氏を意識していたことの証拠をもっと多くあげること、これが小和田氏の課題であろう。

 次ぎに「悪逆非道」という文言についてだが、これは本能寺の変後のうたい文句に過ぎない。そもそも「悪虐」とあるのは、美濃の勢力を味方に付けるためである。そういうところでは平気でウソも書く。そういうこともあるのである。では信長が「悪虐」なら光秀はどうなるのか。これは光秀の立場を正当化するための、飾り文句である可能性が高いのである。たとえ信長が悪逆非道ではなかったとしてもこういう文言で味方に引き入れようとしたはずである。
 また小和田氏は信長の悪逆非道として以下の五点を挙げている。

@ 正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画
A
京暦への口出し
B
平姓将軍への任官
C
現職太政大臣近衛前久への暴言
D
正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜の焼き殺し

 比叡山焼き討ちに反対したことを挙げないのは、評価できる。小和田氏はこれについて信長の焼き討ちに光秀が積極的に参加したことを述べているがそれは良質の史料に基づいており、信頼が置ける。@については天皇が譲位をしようとしていたのか続投しようとしていたのかどうかは学界で意見がわかれている。ただ皇位簒奪計画というのは、誠仁親王を天皇にすることをいうのだろうか。Aは確かにあった。しかしそれに光秀が反対していたかどうかそれについては明確な根拠が得られていない。Bこれは光秀が土岐源氏として誇りをもって生きていたことを前提としているが、先ほど見たように光秀が土岐源氏を意識していた、とは到底言い切れないのである。だからBは疑問である。Cは『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の出典だが、記事の事実性さえ疑われている。しかし仮に事実であったとしても、光秀がそれを悪逆非道として止めるべきものだと思ったかは疑問である。Dについてもはっきりとした根拠がない。
 そして、『明智軍記(あけちぐんき)』の国替えの記事を信用しているが、この記事は信頼できない。これは「六,各説の整理」(p.45参照)でしっかり論議する。
 どうも小和田氏は光秀を天皇の権威を重視するものとして秀吉と対比させたいような感じを受ける。小和田氏は光秀が土岐源氏としてどれほど意識をもっていたかそこをしっかりと説明する必要があろう。