4、藤田達生氏の足利義昭黒幕説

 

 藤田氏は著書『本能寺の変の群像』の中で足利義昭黒幕説を述べている。その本能寺の変を述べる前の全国の状況分析は、良質の史料に基づいており、結構高ランクにあるのではなかろうか。

 また足利義昭の力についても注目しており、いろいろと事例を挙げて説明している。今まで義昭の力については大して注目されておらず、その力は不明であった。  さて義昭の本能寺の変への関与であるがそれは各国に宛てた手紙の「上意」「後入洛」の相手として義昭が必然的に出てくること、そして義昭自身が本能寺の変後活動を活発化させていることを挙げている。

 例を挙げてみる。本能寺の変前に出されたと言われる、河隅忠清(かわすみただきよ)書状には「(6月2日)明智の所より魚津まで使者指し越し(中略)無二の御馳走申し上ぐべき由」を知らせられたらしい。6月2日(本能寺の変当日)に魚津にいるのだから、5月下旬には京都を出た、という推測が成り立つ。これによって本能寺の変が計画的なものだということ、になるらしいのだが、何とこの書状、年月日と宛所が抹消されている。これをもってあやしいと考えるか、決定的な情報だ、と考えるかは皆さん次第である。また藤田氏は美濃三人衆の安藤守就が本能寺の変に乗じて戦っていることを挙げ、光秀が連絡した可能性を示している。そうするとこの河隅忠清書状も本当だということもあり得る。

 またもう一つ『別本川角太閤記(べっぽんかわすみたいこうき)』の書状を挙げているが、これは信頼できない。(この後の「六、各説の整理」p.48参照)

 だから本能寺の変に計画性があったということはある程度、信じてもいいのではないだろうか。しかし、これらの書状をもって義昭が中核にいた、と断定するのは早計であろう。「上意」「御入洛」などの書類を見るともう一つの推測ができる。明智光秀は諸大名を統合するために勝手に義昭の名を使い、義昭は光秀のクーデターに乗って自分の政権を樹立しようとした、という考え方である。これは考えられなくもない。

 藤田氏の論文には一つ穴がある。これは史家の鈴木眞哉(すずきまさや)氏と電話で対談してわかったことだが、どうして義昭が毛利を固めていなかったのか。足利義昭がいた備後は鞆(とも)は毛利領であり、実際義昭は毛利の庇護を受けていた。義昭が本能寺の変の「中核」だというのなら、どうして足下の毛利が秀吉討ちに消極的なのか。すなわち毛利は、本能寺の変後事件を知らずに騙されて秀吉と講和を結んでしまったカンは拭えない。頼山陽の『大日本史』などは秀吉は事件を明かしてから堂々と講和を結んだとあるがこれは、全くの偽りである。
 義昭が中核にいたならば毛利は反信長勢力として、どうして本能寺の変を知らなかったのか。またかりに義昭が事前に活発に動いていたならば、毛利とて気づくであろう。それが毛利には全くそういう風が見えず、後手後手にまわっている。これは義昭黒幕説の問題点として、論議すべきである。
 次に藤田氏は関連人物を挙げているが、これがどうも尻尾を出した感じが拭えないのである。まず義昭と光秀であるがこれにはあまり根拠というものは見たことがないが旧主と言うこともあり交わりがあっても不思議ではない。また藤田氏は有力公家の参加という立花京子氏の考えに理解を示し、近衛前久(さきひさ)を重要人物としているが、明智光秀との接点が明確でない。義昭と前久は義理の兄弟だからなんとか理解できなくもない。しかし義昭と前久を結びつける人物として、本願寺顕如(けんにょ)の息子・教如(きょうにょ)が出てきているのは驚愕である。なぜ教如なのか。藤田氏は教如の諸国廻りの話を出し、その後雑賀(さいが)に入り、雑賀の人間が信長の死を毛利に伝えたことを根拠にしているが、それでは有力な根拠となっていない。この教如という人物は可能性はあるかもしれないが史料の上では関与したなどとは到底認められない。

 本願寺教如・近衛前久・足利義昭のこれらの連絡における書状は現存していない。織田家に内通している者の可能性を疑い、書状にせず口頭で伝えさせたのか、あるいは、このような連絡は伝えることが不可能だったのかであろう。信長の政策として関所などを設けなかったことから考えると後者は考えられない、とすると前者であろう。

 藤田氏は本能寺の変を書物面から計画されたものだということを明らかにしたが、途中で本願寺教如という根拠微弱な人物が出てくるなど人物関係については問題がある。