3、立花京子氏の朝廷黒幕説

 

 一見するとわかりにくいのだが、要するに勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)、近衛前久(このえさきひさ)、吉田兼見(よしだかねみ)、誠仁親王(さねひとしんのう)が信長討ちに関与したメンバーであったことしか述べられていない。この立花氏の著書では『信長権力と朝廷』の中で、公武対立について延々と述べていて、その中に本能寺の変がある。立花氏はまず82年4月(本能寺の変の数ヶ月前)に行われた三職(さんしき)推任について、信長から朝廷への圧力があり朝廷は推任に使者を出した、と述べている。これについてはp.52を参照。この三職推任についての見解はほとんど良質の史料に基づいており(原文の読み方まで吟味している)ある程度の評価を与えてもいい。しかし話が本能寺の変に飛ぶやいなや、史料からの飛躍が見られるようになるのである。

 斎藤利三をを「かれなと信長打談合衆也(うちだんごうのしゅうなり)」と勧修寺晴豊が記しているところから晴豊を犯人にしているが、その理由とは、本能寺の変の半月後に光秀家中の謀議の場面を晴豊が「かれなと・・・・」というのは変だ、というのである。だがそれは筋が通っていない。「かれなと・・・・」という記述がどうして変なのか。晴豊が本能寺の変に関与していようがなかろうが、京都市中に斎藤利三が引き回されてきたら、「ああ、あれは信長をうつ談合をしていた人だ」というのが普通であろう。これを以て晴豊が関与していたとするのは大きな飛躍である。仮にこの記述によって晴豊が明智内部まで知っていた、と仮定しても、それは晴豊が関与していたということにはならない。また確かに「大さけ」という記述によって信長の死を悼むムードがなかったことはわかる。しかしそれをどうして関与と結びつけてしまうのか。この記事は「大さけ」以上でも以下でもない。

 また日記に信長への弔意、光秀への憤慨を示していないという事をもって晴豊関与と結びつけるのは如何のものか。

 以上立花氏が挙げた根拠は、本能寺の変に晴豊が関与しようがしまいが、できたことであり、これらは根拠にならない。

 次に近衛前久である。これも晴豊と同じく推測に大きな飛躍が見られる。ただ近衛前久の動きについては賛否両論とも否定しかねていて実に困惑している。

 反論を示せば、

@前久が本能寺の変後に逃げており、織田信孝に追われたりしたのは他の公家の讒言(ざんげん)であって、前久はそのために逃げた。
A『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の信長の近衛侮辱は書類の性格から言って信頼できない。
B光秀の兵が近衛邸から矢をいかけたのは、地理的にいってやむを得ない話(攻撃場所のすぐ隣)でそれをもって根拠にはならない。

 などがある。

 しかし「近衛殿今度非挙事外也(このえどの こんどひきょ ことほかなり)」(『日々記』)※4とあるのは、朝廷関与の有力な根拠であると思われるが、これとてそういう近衛の讒言が流れていた、とも解釈でき事態はよくわからない。

 吉田兼見(吉田神社神官、信長・光秀に近い)の関与だがこれも両方考えられる。 ただ一つ提言しておきたいのは彼の日記・『兼見卿記(かねみきょうき)』の空白期間を近衛・兼見で密談をすすめたとしている点である。これは明らかな論理の飛躍である。空白期間から感じるものはあるかもしれないが、そこはなにも書かれておらず、このように自分に都合よく解釈するのはまことに遺憾(いかん)である。

 はっきりいっておくが本能寺の変の研究では、『兼見卿記』の空白期間を都合のいいように判断する例がよく見られる。しかしそれは自分の説を正当化するための自己中心的な暴挙であるといわなければならない。空白期間はあくまで空白であり、それ以上でも以下でもない。そこを図々しく解釈するのは大問題である。

 誠仁(さねひと)親王についてだがこれは勧修寺晴豊と連動するところが多く、晴豊が事件に関与したか、どうかが大きなウェイトを占めるように思える。だからここでは多くは述べない。親王についても親信長と見るか反信長と見るかわかれており、一概に結論は出せない。

 以上のようにこの四者に関してはあやしいところが見られないでもない。しかしこの説の弱い点は光秀と朝廷側の事前の接触がはっきりしないことである。確かに事後には朝廷は光秀と連動しているかもしれない。しかし事前の接触について立花氏は全くふれて居らず、よくわかっていない。我々はそれを調べたが、(主に『兼見卿記』)上記の四人と光秀との事前の接触というのがほとんど見あたらない。特に立花氏が注目する4月17日以降にはあやしい記事が見あたらないのである。計画は秘密にすすめるものだから、書くべきではないのかもしれないが、一つぐらい証拠が残っていても不思議ではない。だから現在の情況ではこの説は首肯できない。 立花氏の論文は公武対立に関して相当説得力がある。しかし公武対立があってとしても実際事件に関与したかどうかは全くの別物であるといわなければならない。公武対立があったからと言っても、朝廷が本能寺の変に関与した、という証拠にはならない。

 また光秀の持つ意味が小さくなっているのも確かである。ここらへんの事前のことについて立花氏は解説するべきである。