1、高柳光壽氏の野望説

 

 高柳光壽(みつとし)氏は紙面の多くを怨恨説批判につかっている。確かに氏が挙げた怨恨説というのは出典が皆史料の価値が低いものばかりで否定されるべき興味本位の俗説というべきである。これらがTVドラマなどで頭にこびり付いている人がいるだろうが、これは高柳氏の吟味というものが、出典そのものの信頼性に着目しており、高く評価できるのではなかろうか。怨恨説の桑田氏もこれらについては批判しているものもあり、重なっているものについてはもう事実として論じる必要はないであろう。ただ高柳氏の著書を見るとここまで良質の史料に準拠してすすめてきたのに対し、彼の野望説の主張というものはどうも魔が差した感が拭えない。なぜなら怨恨説の各種を史料的価値が低い、といって沈めている割に自分の野望説の根拠の史料が価値が低いか、存在しないのである。『白石純書』などという自分でも疑問を投げかけているような史料に拠っているところなど如何なものか。さらにもう一回見て頂ければわかるが、野望説の展開があまりに心情的すぎるのである。これには根拠も何もない。高柳氏の推測が多分にあると申し上げねばならない。
 特に「立ち上がれ」とか「夢か、夢なものか」というところには共感できる部分がないとはいえないけれど、何分情緒すぎてどうしてこうなってしまうのかがよくわからない。高柳氏は戦国武将は皆天下が欲しかった、としているけれど、それについても何も史料的根拠がなく、よくわからない。とにかくあまりに感情に走りすぎている、というかここだけが高柳氏の論文らしくないようにさえ感じるところがある。
 要するに野望説には、根拠がはっきりしないことが最大の欠点である。