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楚漢時代英雄伝

文責:幸村(当時中3)

 

 始皇帝(政王)の崩御後、陳勝(ちんしょう)、呉広(ごこう)の乱が起こった。そしてその乱に乗じて、次々と英雄たちが蜂起していった。それが「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」の時代である。この時代の主な3つの勢力(秦、楚、漢)は、どのような武将を擁して戦っていたのかということを見ていこうと思う。(下線は特に重要人物)

 

楚(項羽軍団)
 楚は歴史が古く、周王朝の諸侯の一つにも入っている。春秋戦国時代にも常に勢いがあり、「鼎(かなえ)の軽重を問う」や「三年、鳴かず飛ばず」で有名な荘王(そうおう)(春秋五覇の一人)を輩出するなどしている。当時の中国大陸とは慣習が違ったため、「荊蛮」(荊州の蛮族、という意味)と呼ばれていた。

 戦国時代の末期には荊州を中心に、大陸の半分を治めるほどの強国にまでなったが、国内の派閥抗争によって国力が低下し、最後は王翦(おうせん)の率いる60万の軍勢の前に敗れ一度は滅びるが、始皇帝の崩御後、項梁(こうりょう)によって再興された。しかし、垓下の戦いで項羽が敗れたことにより、今度は本当に滅びるのである。

 

項羽(こうう)(前232〜前202)
 本名は項籍(こうせき)、羽は字。祖父の項燕(こうえん)(楚の名将だった)と父親が秦の王翦(おうせん)(白起(はくき)と並ぶ秦の名将)に討たれたため、叔父の項梁に育てられた。聡明で賢かったため、項梁に愛された。参加した合戦はほとんどすべて勝ち、一騎討ちでも無類の強さを誇った。最後は垓下(がいか)で漢軍に敗れ自害した。気性の起伏が激しく、それが最後まで祟った。
項梁(こうりょう)(?〜前208)
 項羽の叔父の中で一番若く、戦死した項羽の父に代わって項羽を育てた。陳勝の挙兵に呼応して兵を挙げ、懐王(かいおう)を盟主に立てて秦討伐軍の総大将を務めた。項羽の暴走にストップをかけられる数少ない(唯一の?)人でもあった。最後は定陶で秦の章邯(しょうかん)の夜襲を受け、あえなく戦死した。
項伯(こうはく)(?〜?)
 項羽の叔父の一人で項梁より年上。以前に人を切ったときに張良(ちょうりょう)にかくまってもらい、そのことから張良とは仲が良かった。項羽の一門衆の中では一番頭が切れたため、笵増(はんぞう)の後釜に座って軍師となったが、張良との友情を捨てきれずにどっちつかずの行動をとることも多くあった。(鴻門(こうもん)の会など)しかしそのことから、漢の天下統一の後、劉姓を賜った。
笵増(はんぞう)(前277〜前204)
 智略では張良(ちょうりょう)、用兵では韓信(かんしん)に匹敵する楚軍唯一の謀将。項梁の蜂起のときから楚に仕えており、項羽が「西楚の覇王」を名乗ると「亜父」と呼ばれ尊敬された。誰よりも劉邦を警戒し、何度も殺すよう進言したが項羽に却下された。それどころか、張良に偽情報を吹き込まれた虞子期(ぐしき)の讒言によって追放されてしまい、その直後に病死した。
鍾離眛(しょうりばつ)(?〜前201)
 項羽に最後まで忠誠を誓った数少ない武将。名前には二通りの読み方があり、司馬遼太郎の小説のみ「しょうりまい」としている。項羽に仕えて数々の手柄を立てた。しかし、合戦中に劉邦を狙撃して負傷させたため劉邦に恨まれた。項羽の死後は親友の韓信の元に身を寄せ、何度も韓信に独立を促すが受け入れられず、それどころか韓信が、自分を殺してまで劉邦に忠誠を誓おうとしていることを知ると憤り自害した。
龍且(りゅうしょ)(?〜前203)
 項羽配下の猛将。項羽を裏切った英布(えいふ)と戦い、これを撃破するなど相当な活躍をしたが、斉の援軍として韓信と戦い、韓信の奇略の前にあえなく敗死した。基本的な思考回路が項羽に似ていたためか、相当重用されていた。
虞子期(ぐしき)(?〜前202)
 項羽の愛人、虞美人(ぐびじん)の弟。張良の計略に引っかかって笵増を追放させたり、最後の戦い(垓下(がいか)の戦い)の前に突然、虞美人の墓の前で自害するなどさえないところの多い武将であった。その上強いわけでもなく、頭が切れるわけでもなかった。彼の功績を見る限りでは、「愚子期」のほうがふさわしいだろう。
季布(きふ)(?〜前145)
 項羽配下の名将。合戦での活躍は目覚しく、韓信の計略を見破って項羽を救ったこともある。しかしその活躍から、漢の天下統一後、劉邦に指名手配される。しかしその後、数奇な運命をたどり、最後には漢に仕えた。
懐王(かいおう)(?〜前206)
 最後の楚王である懐王(かいおう)の孫。農民としてひっそり暮らしているのを笵増が見つけ、反秦連合軍の盟主として担ぎ上げられた。秦の打倒後、もはや利用価値はないと考えた項羽によって殺された。そして、このことが劉邦の楚討伐の大義名分となる。

 

まとめ
 楚には、このほかにも項荘(こうそう)などの武将がいるが、皆、B級の武将である。特に楚には、頭の切れる武将が少なかった、というのが結論であろう。あと一人軍師系の人物がいれば歴史は大幅に変わっていたかもしれない。しかし、項羽の暴走にストップがかけられなければそんなものいくつあっても足りない。やはり全て項羽の身から出た錆なのか・・・。

 

漢(劉邦軍団)
 漢という国は地盤も何もないいわば新興国家である。劉邦の死後、皇后であった呂后(りょこう)とその一族の専横があったが、陳平(ちんぺい)らによって彼らが排除された後は比較的安定する。そして、武帝の時期には朝鮮半島の方まで勢力を広げ、途中王莽(おうもう)の反乱があったりするものの、曹丕(そうひ)による献帝(けんてい)の追放までおよそ400年続くことになる。

 

劉邦(りゅうほう)(前256〜前〜195)
 いわずと知れた漢の初代皇帝、高祖(こうそ)。司馬遼太郎の「項羽と劉邦」では項羽と比較され、明らかに善人扱いされているが、実際は猜疑心が強いオジサンである。そのうえ、旗揚げする前は、(後も?)いまでいうキャバクラ通いの日々だったらしい。しかし、項羽と違って部下のいうことを良く聞くので人望があり、それが天下統一への原動力になった。
張良(ちょうりょう)(前250?〜前185)
 漢の三傑の筆頭。字は子房(しぼう)だといわれているが、子房の「子」には孔子、孟子などについている「子」と同じ意味があるらしい。若い頃に始皇帝暗殺に失敗している。劉邦に仕え、あげたらきりがないほど多くの功績をたてた。劉邦の死後は、政界から身を引いた。
韓信(かんしん)(?〜前196)
 漢の三傑のうちの一人。はじめは項羽に仕えていたが、笵増が自分を殺すよう項羽に忠告しているのを知り、身の危険を感じて漢に逃亡した。貧相な身なりをしていたため劉邦は取り合ってくれなかったが、丞相の蕭何(しょうか)などの熱心な推挙により大元帥に抜擢される。この時代きっての戦略家で、「背水の陣」「国士無双」などの名句の元にもなった偉人。しかし、漢の統一後は常に劉邦に警戒され、最後は謀反の疑いをかけられて呂后(りょこう)に殺された。
蕭何(しょうか)(?〜前193)
 漢の三傑のうちの一人。兵糧の輸送、管理など一見地味な仕事が多かったが、遠征の多かった漢軍にとってはなくてはならない存在だった。漢の初代丞相で、韓信の推挙などにもかかわっている。二代目の丞相に犬猿の仲だった曹参(そうしん)を推挙するなど、公私のけじめをつけられる人物でもあった。
英布(えいふ)(?〜前196)
 初めは項羽に仕え、始皇帝陵の発掘義弟の暗殺などを行ったが、漢の説客である随何(ずいか)の説得により漢に寝返った。漢の統一の後、戦友だった韓信や彭越(ほうえつ)(漢の魏王)が粛清されていくのを見て恐怖を覚え、反乱を起こすが、妻の実家に騙されて死んでしまった。額に刺青(黥)があったため黥布(げいふ)とも呼ばれた。(なお、「史記」では黥布で統一されている)
陳平(ちんぺい)(前239〜前178)
 漢の功臣。項羽を見限って劉邦の下へ身を寄せた。笵増の追い落とし工作などに功があり、呂后の死後は周勃(しゅうぼつ)とともに、権勢を振るっていた呂氏一族を滅ぼした。そのうえ、呂氏を討伐した後に、「周勃のほうが功がある」と言って丞相の職を返上した、いわゆるエライ人である。しかし一方で、劉邦が驚くほど女癖が悪いことでも有名だった。部下の奥さんにしょっちゅう手をつけるので、それを理由に免職されかけたこともあった。
周勃(しゅうぼつ)(?〜前169)
 長年劉邦に仕え、数々の戦功を上げた。その戦功により大尉となり、呂氏討伐の功で丞相になった。(ちなみに、大尉と丞相ではもらえる給料に変わりはない)地味だが、広辞苑にも載るようなエライ人である。
樊?(はんかい)(?〜前189)
 劉邦の幼馴染。項羽と互角に戦えるほどの豪傑。鴻門の会で劉邦の危機を救ったのは有名。奥さんは呂后の妹で、これがまたすごかったらしい。
曹参(そうしん)(前240〜前190)
 漢の二代目丞相。丞相としては特に何もしていない。むしろ軍人としての活躍が目立ち、龍且を討ち取るなど多くの軍功を立てた猛将。三国時代の魏の初代皇帝曹丕(そうひ)はこの人の末裔にあたる。

 

まとめ
 漢にはこのほかにも、彭越(ほうえつ)、夏侯嬰(かこうえい)などウルトラA級の武将が多数いる。楚と比べても人材の絶対量に差がありすぎる。部下の言うことをまじめに聞くことしか取り柄のなかった劉邦だが、結局その唯一の取り柄によって楚漢戦争で勝利を収めたわけである。項羽にとっては羨ましい話であろう。

 

 秦は、楚と並ぶ春秋戦国時代の強国。大陸西部の雍州周辺を治めていた。始皇帝の六代前に当たる孝公が登用した商鞅(しょうおう)の改革によって国力を高め、笵?(はんしょ)の遠公近攻策(えんこうきんこうさく)、張儀(ちょうぎ)の連衡策(れんこうさく)、将軍であった白起(はくき)、王翦(おうせん)、蒙恬(もうてん)らの活躍によって天下を統一した。しかし、晩年の始皇帝の横暴は目に余るものがあり、始皇帝の崩御とともに民衆の不満は爆発し、各地で反乱が起きた。一方都では、宦官の趙高(ちょうこう)とその一族が権力を掌握したために国が乱れ、最後は楚軍に滅ぼされた。

 

趙高(ちょうこう)(前240?〜前207)
 悪名高き秦の宦官。始皇帝の崩御後、丞相の李斯(りし)と謀って太子の扶蘇(ふそ)とその後見の蒙恬を殺し、胡亥(こがい)を帝位につけ、反間の計によって李斯も謀殺して権力を掌握した。最後は皇帝の胡亥まで暗殺するが、扶蘇の子供の子嬰(しえい)に暗殺された。「馬鹿」という言葉の由来も作った中国史上まれに見る極悪人。
李斯(りし)(?〜前208)
 秦の初代丞相。荀子の弟子で、韓非子の同級生。初期の始皇帝の腹心であった呂不韋(りょふい)(始皇帝の父親ともいわれる)の食客だったが、始皇帝に見出された。出世欲が強く、自らの出世のために同級生だった韓非子(かんぴし)を謀殺している。始皇帝のもとでは焚書坑儒を実行するなど活躍をしたが、趙高の反間の計に引っかかり殺された。
章邯(しょうかん)(?〜前205)
 反乱軍を鎮圧するために任命された秦の将軍。司馬欣(しばきん)らとともに反乱軍を鎮圧し、項梁(こうりょう)を討ち取るなどの功をあげるが、鋸鹿(きょろく)の戦いで項羽に敗れ、その後項羽に降伏した。そして、項羽によって雍王に任命されるが、今度は劉邦に敗れ殺された。なんともかわいそうな武将である。

 

まとめ
 秦帝国で、この時代に名を馳せたのはこの三人ぐらいである。後は取り上げるに足らない人たちなので、ここでは取り上げない。この時代の秦は、人材うんぬんではなく趙高(ちょうこう)一人にすべての責任があるので何ともいえない。彼さえいなければ秦は少なくともあと30年盛ったであろうに。

 

以上の三ヶ国を見てもらったわけだが、この時代に多種多様な人材が存在していたことはお分かりいただけたであろう。ただ、人材の優秀さには個々に差がある。その中でも、特に優秀な人材を多数擁した漢が最終的にこの時代を制した。人は国家の礎なのである。