曹操を支えた大軍師

文責:奉孝(当時中2)

 

 日本で一般に読まれているのは、三国志演義や吉川三国志などであり、それらの本では劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)のいる蜀を中心として書いてある物がほとんどである。自然と蜀の軍師や武将のことが多く書かれているが、それに対し、悪役とされてしまった曹操(そうそう)の、軍師や武将は記述が比較的少ない。そこで、演技で詳しく説明されていない曹操の軍師の中で、僕が好きな郭嘉(かくか)について紹介と考察をしていきたいと思う。

 

◆郭嘉 奉孝(ほうこう)     出身 : 潁川郡陽テキ県    (169〜207)

 

紹介
 郭嘉は世に出るに当たって、まず北の袁紹(えんしょう)のもとにおもむいた。会見を済ませてから、郭嘉は袁紹の謀士である郭図(かくと)と辛評に対して、「知謀の士は、主君の能力を細かく分析しておくものです。そうでなくては功名を立てることはできません。」と言い、さらに袁紹の欠点を述べた後去っていった。
 場所は変わって、曹操は大いに才能を買っていた戯志才(ぎしさい)という軍師が早死にしたため、新しい軍師を探していた。曹操の謀士荀ケ(じゅんいく)は曹操に郭嘉を推挙した。曹操と会見した郭嘉は、「やっと、わが主君にめぐり会えたぞ。」と言い、彼に仕えた。
 曹操は郭嘉に言った。「袁紹は領土が広く兵力が強大なのを鼻にかけ、たびたび天子をないがしろにしている。成敗したいのだが、その戦力がない。」それに対して、郭嘉は「袁紹には敗北の要因が十、殿には勝利の要因が十あります。殿には袁紹より、道、義、治、度、謀、徳、仁、明、文、武において優れています。」と答えた。曹操は笑いながら「私はそのような徳を持っているだろうか。」と言った。郭嘉は「袁紹は、今北方で公孫讚(こうそんさん)を攻撃しています。その隙に東征して呂布(りょふ)をかたづけましょう。」と進言した。
 建安三年(198年)、郭嘉の進言もあって、曹操は呂布を攻略すべく徐州へ向かった。呂布を攻撃して追いつめたが、冬になり兵士の疲労が激しいため撤退しようと考えた。郭嘉は呂布を捕らえるまで攻撃の手を緩めないように、荀ケと共に進言し、曹操は呂布を捕らえることができた。
 官渡(かんと)で曹操と袁紹とが対陣している際に、孫策(そんさく)が曹操の根拠地の許昌(きょしょう)を狙っているという情報がもたらされ、曹操と幕僚達に動揺の色が走った。郭嘉は「孫策は江東を平定したばかり。彼に殺された英雄豪傑の部下には、命を捨てても報復せんとする者も多い。孫策はこれらにまったく気をつかっていませんが、いつか必ず刺客の手によって殺されるでしょう。」と言って周囲を落ち着かせた。孫策(そんさく)は郭嘉(かくか)の予告通り、許貢(きょこう)の部下の手によって怪我を負い死亡した。
 袁紹が病死すると、曹操は袁譚(えんたん)、袁尚(えんしょう)らと戦い連戦連勝であった。これを機に袁家を滅ぼしてしまおうという意見が諸将の間で優勢となった。郭嘉は「袁兄弟の間には後継者問題があり、部下も二つに分かれている。今、事を急げば彼らは団結して我々に反抗するでしょうが、放っておけばすぐに争いを始めます。南の荊州に向かって劉表を討伐するふりを見せて、彼らが争いを起こした後に攻め込めば、一挙にして平定できましょう。」と進言した。予想通り袁兄弟は争いを始めて、曹操はこれを滅ぼした。
 曹操は烏丸(うがん)に逃げ込んだ袁尚の討伐を考えた。諸将は劉表(りゅうひょう)が劉備を差し向けて許昌(きょしょう)を攻撃させないかと懸念した。郭嘉は「烏丸どもは遠い地にいるため、何の備えもしていないに違いない。それにつけこんで不意をつけば、容易に壊滅できます。これを放置したまま南征したりすれば、袁紹に恩を受けた烏丸どもは兵を集め平定するのは難しくなります。劉表に劉備を使いこなす器量はありません。国中を空にして北方遠征に向かおうとも、心配することはありません。」と言い、懸念をうち払った。曹操は郭嘉の軍略にそって北伐を進行し、烏丸の王であったとうとつを斬った。この年郭嘉は38才で逝去した。葬儀で曹操は荀攸(じゅんゆう)達に対して「諸君らは私と同年代だが郭嘉だけ若かった。天下のことがすめば彼に後を託そう思っていたが若死にした。」と嘆いた。
 陳羣(ちんぐん)は郭嘉の品行が悪いと、朝廷で何度も郭嘉のことを起訴したが、郭嘉はまったくそのことを気にしなかった。
 司馬懿(しばい)は「郭嘉や戯志才(ぎしさい)は世俗に背を向けた生き方をしていたが、知謀に優れており最後には名声を残した。」と評している。

 

考察
 郭嘉は将来の予測を立て、それを的中させた人物です。その読みが的中したのも、紹介の始めの方で郭嘉が言っているように、劉備、劉表、袁紹、孫策などの人物に対する細かい分析や人間の心理や環境を的確に総合して、どのような展開を見せるか想像する力があったのだと思います。
 堅物の陳羣に非難された話や司馬懿の評価を見ると、自由気ままに生きた郭嘉の姿が想像できます。天才肌であり、直感と分析力を頭の中で想像できる大軍師であると思います。郭嘉が伝説化して名軍師とされたのは、早世したことで、持っていたであろう欠点が今に伝わっていないからかもしれません。