魏・呉・蜀 三国の人材傾向

文責:伯約(当時中2)

 

 三国時代に生き、英雄と呼ばれるような人々は皆「中国全土の統一」という共通の目的を持っている。

 中でも特にその志が強いのは

 帝を後ろ盾とし百万の精鋭を率いる曹操。
 孫堅、孫策が作った長江の強大な水軍を受け継いだ孫権。
 中国に並ぶものがいない大軍師諸葛亮孔明を筆頭に豊富な人材を率いる劉備。

 この3人であろう。ここでは、この3人の配下武将のそうそうたる顔ぶれにランキングをつけてみた。(演義が基だが独断と偏見が入り乱れてのランキングである)

 

  武勇   知謀  
     
許チョ 甘寧 張飛 司馬懿 周瑜 諸葛亮
典韋 太史慈 趙雲 荀ケ 陸遜 ホウ統
夏侯惇 周泰 馬超 郭嘉 呂蒙 徐庶
張遼 黄蓋 関羽 賈ク 張昭 法正
徐晃 朱桓 黄忠 荀攸 魯粛 姜維
ホウ徳 呂蒙 魏延 程c 諸葛瑾 馬良
張コウ 凌統 姜維 陳羣 張紘 蒋エン
夏侯淵 丁奉 李厳 ケ艾 諸葛恪 費イ
曹仁 徐盛 張苞 鍾会 陸抗 董允
10 曹洪 蒋欽 関興 10 楊修 朱桓 伊籍 10

 

人材に対するそれぞれの君主の考え方

 

1、魏
曹操
 魏では基本的に、全体として、優秀な人材を配下にしようという考えが強かった。

 特に曹操は、優秀な人材を見つけると、それがいかに豪勇をふるう者であっても「矢を使ってはならぬ。生け捕って来い。」などと、配下に無茶な命令を出すことがしばしばある。「三国志演義」では次のようなセリフで、部将を配下にしたい気持ちを、表している場面が何ケ所かある。

*許?(きょちょ)と互角に戦う徐晃の強さを知って。
「徐晃はまことの勇将じゃ。わしは力で彼を下しとうない。策略で我が手につける法はないか。」

*典韋と互角に戦った許?(きょちょ)を前にして。
「おもとの高名はかねてから聞き及んでおったが、我が手についてはくれまいか。」

*関羽一人が取り残された下?(かひ)の城を攻める軍議の場で。
「わしはかねがね雲長の武芸、人材に感心しておるので、なんとかわしのもとで働かせたいのじゃ。」

*長坂で自分の百万の軍勢の中を縦横無尽に駆け巡る趙雲の姿を見て。
「ううむ、まこと猛虎じゃ。あれを生け捕りたい。」

*参謀・程cにも勝るという、名軍師・徐庶が劉備についたのを知って。
「惜しい人物を劉備につかせてしもうたな。翼を与えたようなものじゃ。何とかできぬだろうか。」

この他にもいろいろあるが特に有名なものがこの5つである。

また、優秀な部将が仲間になったときの喜びを表すことばとして、

「これぞ、わが張子房(ちょうしぼう)(漢の功臣・張良)じゃ。」→荀ケ
「これぞ、古の悪来の再来じゃ。」→典韋

等が有名である。

それに、曹操が初めて領土にした、陳留・許昌方面に賢者が多かったことから、芋ヅル式に賢者を仲間にできた。その図を紹介しよう。

荀ケ・荀攸 → 程c → 郭嘉 → 劉曄(りゅうよう) → 満寵(まんちょう)・呂虔(りょけん) → 毛?(もうかい)

(→は推挙)

 

2、呉
 呉は魏と同じく賢人が多かったが、呉には策を用いて敵の軍勢を打ち破る事に才を発揮する部将よりも、内政・外交に才を発揮する部将の方が多かった。(ここが魏との大きな違いの一つだと思う。)

 呉は孫氏三代に渡って築き上げられた国なので、三代に渡って仕えた将もいれば、孫権の代から仕えた将もいる。ここでは、それぞれの代に仕え始めた賢人・勇将について、紹介しよう。

初代 孫堅
黄蓋  程普  韓当

 この頃孫氏の領土はあまり大きくなかったが、配下部将の質は決して悪くない。 むしろ、この時代の他の君主と比べたら、人材には恵まれている。 特に、上に挙げた三人は、後の時代でも呉国の中心となるような、智勇兼備の名将である。

二代目 孫策
張昭  周瑜  張紘  華?(かきん)  李異  太史慈

 孫策自身が、優秀な部将を配下にすることに、とても熱心だったため、優秀な部将が数多く仲間になった。中でも、張昭・周喩・太史慈等は後の呉国にとって、いなくてはならない人物である。

三代目 孫権
魯粛  諸葛瑾  甘寧(かんねい)  ?沢(かんたく)  朱桓  陸績
陸遜
(りくそん)(初名:陸議)  呂蒙(りょもう)  徐盛  潘璋(はんしょう)  丁奉  周泰

 兄の孫策が勢力を大規模に拡大し、それが孫権の代で安定して来たせいもあり、孫権は、広く賢人を集めることができた。ここで集められた部将はこれからの呉の主力となる人々である。孫権は、孫策が死んで間もなく彼の遺言に従い、広く賢人・勇将を集め、その登用に熱心に取り組んでいた。先に紹介した、孫権の代から配下になった部将の内大半がその時配下にした者である。

 孫権は、配下を信頼し、思いやりを持って接していた。さらに、彼はそれぞれの配下の長所短所をよく知っており、その者の才能が最も生かされる場面で起用するなど、配下の使い方にも長けていた。

 これらの事から君主と配下の絆が強まり、呉国は一大強国になったのだとぼくは思う。

 

3、蜀
劉備
 劉備の人材傾向を見る場合、時代を2つに分けて考えた方が良い。一つは劉備が自分の国を持たず諸国に身を任せ流浪していた時代。そして、もう一つは蜀に入り徳政を行い国を豊かにし、魏や呉に対抗しうるまでに成長した時代である。僕は人材のことを考えると前の時代のほうが重要だと思う。その理由は蜀に入り勢力が拡大され安定した後の時代のほうが武将数は多いが、その蜀を支える主力武将達は前の流浪時代に劉備が配下にした者達だからである。前の時代に配下になった優秀な武将としては
諸葛亮、?統(ほうとう)、馬良、伊籍、張飛、関羽、趙雲、黄忠、魏延、等々。
 量としてはイマイチかもしれないが質という点で見れば劉備は人材に恵まれていたと思う。これらの武将が曹操や孫権ではなく、勢力も小さく領地も持たない劉備に付いたのはやはり劉備の人間的魅力に魅かれてのことだと思う。

 劉備は蜀に入った時に自分に降伏した武将はすべて抜擢し用いた。その武将達は60余名にも及んだが特に優秀だった武将を紹介しよう。

厳顔(げんがん)  法正  董和  許靖(きょせい)  ?義(ほうぎ)  劉巴(りゅうは)
黄権  呉懿
(ごい)   彭漾(ほうよう)  卓膺(たくよう)  李厳  張翼  秦?(しんふく)
?周(しょうしゅう) 呂義  霍峻(かくしゅん) ケ芝(とうし)  楊洪
周羣
(しゅうぐん)  費?(ひい)  費詩  孟達
劉備が人材登用に熱心になり始めたきっかけは、司馬徽(しばき)(水鏡)に出会ったことだと僕は思う。

それまでに配下になった関羽・張飛・趙雲等の武将はどちらかと言えば、自分から配下になった。

いわば仕官という形である。しかし、司馬徽は劉備の配下を見てこういった。

「そなたの配下には優れた豪傑も何人か見受けられる。
  しかし、それらの者をよく用いることのできる才を持った者がおらぬのじゃ。」

 劉備ははっと気が付き、それからは賢人を集めることに熱心になった。その賢人第一号が徐庶である。劉備にとっては、初めての謀臣らしい謀臣である。彼の活躍により劉備は軍師の大切さを改めて知った。さらに、徐庶の推薦で諸葛亮を知り、有名な三顧の礼を持って配下に加えた。その後も数々の賢人を配下にした。劉備は優秀な武将を仲間にすると、まるで友人の様に接していた。この独特の、主君と配下の間にある親しみが、裸一貫から三国の一雄にまで飛躍した、劉備の大きな力であった。

 流浪将軍であった劉備が、巨大な龍となって天下にその名を轟かせることができたのは、一重に、優秀な配下武将のおかげだったといえる。