1、儒教 孔子とその生涯

 

 さて、中国の思想の中で日本人が最も良く知っているものと言えば、春秋時代の思想家・孔子の教えである儒教であるだろう。これは「子曰く…」で始まる文体の『論語』によってわれわれにも広く知られている。

 孔子は周王朝の始祖である周の文公の子・周公旦(しゅうこうたん)が定めた周王朝の礼に基づく封建制度を理想とし、「仁」を道徳の根本と据えた徳治主義を唱えた。

 彼は魯の国に卑賎の者として生まれ、若い頃に懸命に勉強してやがて高級役人として登用される夢を描くようになる。彼は17歳のときに魯国一の実力者・季孫氏が人材抜擢をするというので行ってみたが、そこでは相手にされなかった。そこで彼は周公旦と鄭の名宰相・子産(しさん)を遠く師と仰ぎ、自己の研鑚(けんさん)に励んだ。やがて孔子の学識は魯で評判となり、彼を慕って人が集まるようになったので、彼は私塾を開くようになった。その後彼はその私塾を高弟に任せると、周の王朝へ遊学し、そこで昔から夢見ていた周公旦の遺した文化を学び、自国である魯を建国当時の周のような国にしようと考えた。しかし、魯はそのころ季孫(きそん)氏・孟孫(もうそん)氏・叔孫(しゅくそん)氏といういわゆる三桓に牛耳られており、孔子は隣国・斉で自分の考えを実現させようとした。そして孔子は斉の景公と面会することができた。景公が孔子に「政治の要諦とは何か」と問うと、孔子は「君、臣、父、子、それぞれが本分を尽くす事です」と答えた。景公は孔子の簡潔で的を得た答えにすっかり感服し、彼を高い地位で仕えさせようとしたが、宰相の晏嬰は「礼ばかり重んじる儒者を登用するべきではありません」と言い、孔子はここでも用いられなかった。孔子はその後、再び私塾で弟子を教えていたが、自分の理想実現の場、すなわち政治を任される場がないことに焦りを覚えていた。
 そして孔子52歳の時、彼にようやくチャンスが訪れた。魯の定公に招かれ、彼は名声を見込まれて長官に抜擢され、さらに宰相に任じられたのである。彼は国内の反乱勢力を鎮圧するなどして魯国をよく治めたが、しかし魯の繁栄を喜ばない斉の奸計によって職を辞すことになる。そして彼は弟子をひきつれて、自分に政治を任せてくれる場を求めて旅に出ることを決意した。旅には大きな困難が伴い、ある時は軍勢に取り囲まれてしまい、食料 が尽きてしまうというこ ともあった。弟子達はやつれきっていたが、孔子 だけは悠然と琴をひいて いた。孔子の弟子である 子路は思わず問うた。「先 生のような君子でも、こ んなに窮することがある のですか?」

 孔子は答えた。「君子だ って窮することがあるのは当然のことだ。だが、 小人(君子でない者)が 窮すると、取り乱してなにをするかわからなくな るものだ。」孔子やその弟 子達は、彼らが歩む道こそ誠の人間が歩む道であると信じて疑わなかったのである。しかし、彼らは色々な国を周ったが、どこの国にも相手にされなかった。これは、乱世であった当時は情より法を優先せざるを得なかったが、孔子がそれと全く反対のことを説いていたためである。

 孔子は69歳の頃故郷である魯に帰り、弟子と共に『詩経』『書経』『春秋』などを再編集した。そして、74歳になってその生涯を終えた。

 彼の死んだ場所には廟が立てられ、たくさんの人が孔子をしのんでそこを訪れるようになった。彼の思想はのちに編集された『論語』によって今でも人々に影響を及ぼし続けている。