4、斉の賢相・晏嬰

 

「梁父吟(りょうほぎん)

歩みて出ず斉城の門 力は能(よ)く南山を排し
遥かに望む蕩陰(とういん)の里 文は能く地紀を紀む
里中に三墳あり 一朝 讒(ざん)言を被れば
累々として正に相似たり 二桃もて三士を殺す
問う 是れ誰が家の墓ぞ 誰が能くこの謀(はかりごと)を為す
田彊(でんきょう)と古治子(こやし)なり 国相 斉の晏子(あんし)なり

 「二桃をもって三士を殺す」というのは斉の伝説である。これは前六世紀後半、春秋時代の名臣・晏嬰(あんえい)にまつわる話で、この「梁父吟」という民謡にその内容が歌われていた。意味はというと、斉の宰相の晏嬰が武勇をもって知られていた三人(歌の中では二人しか名前がでてこない)が力を合わせて斉国の大きな禍になることを恐れ、彼らの離間を計ったのである。三人が君主の前で功績比べをして、最も功績が大きいと思う者が桃を取るのだが、桃は二つしかない。彼らのうち二人が桃を得たが、残った一人は自分の功を挙げて他の二人に桃を返すように言った。他の二人は彼が桃を取るに値することを認め、先に自分達が桃を取ったことを恥じて自刃した。そして残った一人も、自分が一人生きるのは不仁であるとして自殺した。

 この逸話が歴史的事実であるとは考えにくいが、若い頃の諸葛孔明(しょかつこうめい)(三国時代の名軍師)はこの「梁父吟」を繰り返し口ずさんでいたそうである。孔明には三国時代という下克上の激しい乱世と晏嬰が謀を行なった時代が重なって見えたに違いない。

 晏嬰が斉の宰相であった当時は、君主の威厳が損なわれ、家臣達の力が強かった時代であった。その中で晏嬰は、社稷(しゃしょく)(国家)を最も貴び、民に恩恵を施した。彼は身長140センチに満たない小人であったが、立派に斉の宰相を務め、管仲(かんちゅう)と並んで「管晏(かんあん)」と並称されるほどの人物であった。何といっても彼の真骨頂はその一貫した精神であった。「社稷(しゃしょく)を主とす」これは国家を第一に考え、それに尽くそうという意味で、臣下ならば行なって当然のことである。しかしこの時代、臣下の誰もが、ましてや君主までもが国家をおきざりにして自分の利益ばかりを考えていた。

 晏嬰がまだ若い頃、君主の荘公が大夫の崔杼(さいちょ)の妻と通じていて何度もそれを繰り返していた為に崔杼(さいちょ)に殺された。急を聞いて晏嬰は駆けつけると、こう言った。 「我が君が社稷のために死ねば、私も死のう。しかし、ご自分のために死んだり なさっても、私にお供をするいわれはない。」 彼は哭礼(こくれい)を行い、君主の死を悲しんだが、君主よりも社稷を重んじる考えがここに端的に表われている。(この時君主に哭礼を行ったのは晏嬰一人であったが。)

 また崔杼(さいちょ)が景公を即位させた時、大夫全員が崔杼(さいちょ)らに与することを誓わされたが、晏嬰は誓約文を言い直し、ただ君主に忠義を尽くし社稷のためにことを行なうことを誓った。彼は時の権力者におもねることをせず、諫言するときは主君の顔色など全く気にしなかった。それでいて、誰も彼に手をつけることはできなかった。

 さて、宮城谷氏の『晏子』は、晏嬰とその父・晏弱の二代にわたってのストーリーになっている。晏弱はなかば宮城谷さんの想像力によって人物像がつくられているが、彼の勇気と生きざまは晏嬰が理想とし、読者に爽快感を与えるものとして多くを語っている。何と言っても晏嬰の、終生自分の一貫した精神にそぐわないものに「それは違う」と言い続け、さらに斉の宰相として天寿を全うしたという奇跡が物語の中軸に据えられている。

 のちに司馬遷は、もし晏嬰が今生きているのであれば、自分は鞭をもって彼の為に御者をつとめたい、とまで言っている。