3、春秋の五覇

 

 春秋時代前期は、周王朝に代わって諸侯をリードした覇者たちの時代であった。覇者たちの中でも特に有名な者を「春秋の五覇」といい、諸説あるが、斉の桓公・晋の文公・宋の襄公・秦の穆公(ぼくこう)・楚の荘王がこの五人に数えられている。これらの覇者たちの足跡を追いつつ、北進する楚に対して中原諸侯達が力を合わせてそれを防ぐ、というこの時代の流れを書いてみた。
 斉の桓公の兄である斉の襄公(じょうこう)は暗君で、すぐに人を誅殺(ちゅうさつ)したりしたので人々に恐れられていた。彼の弟の糾(きゅう)や小白(しょうはく)(のちの桓公(かんこう))は彼を恐れて出奔してしまった。糾は母の実家がある魯に、小白は斉の近くの?(きょ)に亡命したのである。

 さて、そのころ斉には管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)という者がいて、彼らは非常に仲が良かったので、のちにとても仲が良いことを「管鮑(かんぽう)の交わり」と表現するようになった。そして管仲は糾に仕え、鮑叔は小白に仕えるようになった。そして襄公が死ぬと、糾と小白とは争って斉の君主になろうとした。糾は魯の軍隊を率いてやってきて、糾の軍師となっていた管仲率いる別働隊は国境近くにいた小白の軍隊を攻撃した。 管仲は小白に矢を射当て、小白は倒れ、そのまま霊柩車に乗せられた。

 しかし、実はこのとき小白のベルトの留め金に矢が当たり、小白は偽って死んだふりをしたのである。小白は飛ぶようにして斉に戻り、斉軍を率いて取って返し、すっかり油断していた糾の軍隊を破り、管仲を捕虜にした。小白は自分を狙った管仲を是非殺したいと言ったが、叔はそれを止めて言った。曰く、「管仲は天下の覇者の補佐となる器です。」

 こうして管仲は小白(この時から桓公)を補佐して桓公を覇者たらしめたのである。彼は行政区画制度を整え、製塩や製鉄を行なうなど経済を重視して斉の国力を高めた。また、彼は信義を重んじる人であった。講和会議の席で魯の将軍・曹沫(そうばつ)が桓公を脅して領地返還を約束させたことがあった。桓公はやむを得ず承諾したものの後にその約束を反故にしようとしたが、管仲は約束を守るように説き、天下の評判を高めた。

 また、自分を殺そうとした管仲を宰相に任じ、全幅の信頼を置いた桓公の度量も評価されるべきである。しかし桓公は葵丘(ききゅう)の会盟で覇者となってからというものの驕慢になり、管仲が死ぬと斉は内紛に陥ってしまった。
 桓公が死ぬと、五人の公子達は互いに争い、桓公の葬式さえ行われないという始末であった。そのとき桓公の太子・昭(しょう)が亡命していた宋では昭を送り届けようとして斉を攻め、なんと斉軍を破ってしまった。宋の襄公(じょうこう)はまれに見る理想主義者で、斉の内紛をおさめた後、盟主になろうとして会盟を開いたがそれに反対した楚は宋の襄公を捕らえてしまった。のちに彼は解放されるのだが、楚の軍が宋を通過するのを見てこれを攻め、敗れてしまう。これを泓水(おうすい)の戦いと言うが、このときの襄公の負けっぷりは非常にユニークであった。楚軍と宋軍は河をはさんで対峙したのだが、楚は兵力が多いのをたのんで宋軍の前で渡河を始めた。このとき襄公は楚軍を攻撃すればよいのに、楚の全軍が渡河を完了し隊列を整えるまで待ち、それから攻撃命令を出したので楚の大軍に大敗した。襄公は、「君子は負傷者をさらに傷つけず、昔の戦いは細い道を進む軍をふさぐことはしなかった。私も用意ができていない相手を攻撃するようなことはしない。」と理想論を述べている。これを「宋襄の仁」といい、つまらぬなさけのことを言うようになった。宋の襄公は覇者とは言えず、いわば地域の盟主と言うべきであるが、こういった理想主義者として名を遺した。
 晋(しん)の文公は重耳(ちょうじ)と呼ばれ、晋の献公(けんこう)の公子の一人であった。献公は武によって晋の版図を広げた人で、あるとき戎(えびす)(異民族)を攻め、驪姫(りき)という美女を手に入れた。驪姫は宮中に入って寵愛され、二人の子を生んだ。すると献公は太子の申生(しんせい)、公子の重耳、夷吾(いご)といった有力な後継ぎ達を遠ざけ始めた。やがて太子の申生は驪姫の謀略により自殺に追い込まれ、重耳は母の故国である狄(てき)に、夷吾は屈(くつ)に亡命した。やがて献公が死ぬと驪姫とその子は殺され、重耳と夷吾は即位の使者を送られた。重耳は慎み深い人であったので、自分は父の命令に背いて逃亡し、父の葬儀にも出られなかった身だから、という理由で即位を固辞したが、夷吾は秦の穆公(ぼくこう)に軍隊を借りて即位した。彼のことを晋の恵公(けいこう)と呼ぶ。恵公は秦の穆公に借りた軍隊の代わりに河西の地を与えると言ったが、その約束を反故にした。その後、晋は凶作に見舞われたので恵公は秦から穀物を借りることを考え、秦の穆公に使者を送った。このとき穆公は彼の家臣であった、百里奚(ひゃくりけい)の「天災はどこの国でもかわるがわるおこるものです。天災に遭った国を救い憐れむのが王道というものです」という言葉をいれ、晋に食糧を送った。するとはたして、翌年の秦は不作であった。秦の穆公は当然のごとく晋に穀物の輸送を依頼したが、なんと晋の恵公はこれを黙殺した。秦の穆公は晋の無礼を怒り、翌年晋を攻め、四戦四勝して晋の恵公を捕らえた。その後秦の穆公は百里奚を用いて多くの異民族を懐柔し、その版図を広げて秦を一代で大国にしたのである。
 晋の恵公はのちに許されて帰国すると、こんどは兄の重耳に刺客を送って殺そうとした。あくまで自分の地位を固めようとしたのである。それを察した重耳は十二年間亡命していた狄(てき)の地を去った。重耳、五十五歳のときであった。彼は斉に向かったが、途中の衛では冷たくあしらわれた。彼の臣下は大変な思いをして食糧を集めたという。

 斉では優遇され、妻を得て、重耳は斉で一生を終える気になった。しかし、彼の家来と妻は共謀して重耳を酔いつぶし、彼を馬車に乗せて斉を出国してしまった。意識を取り戻した重耳は怒ったが、家臣の狐偃(こえん)に「あなたの成功のためだ」と説得され、晋に帰国する気になった。途中の曹では礼遇されなかったが、宋では襄公に歓待された。また、鄭でも相手にされなかったが、楚では成王に非常に礼遇された。このとき、成王は重耳に復帰支援の報酬を聞いたのだが、重耳はもし将来、広い戦場で敵味方としてお目にかかったら、三舎(三十六キロ)後退しましょうといった。楚の将軍の子玉はこの発言を不遜だと言って怒ったが、成王は重耳が晋に復帰するのは天の意志なのだよ、と言って重耳を支援した。

 さて、そのころ晋の恵公は死に、代わって秦に人質として捕らえられていたが脱走して帰国した(何でこういう手合いが多いのだろうか)懐公(かいこう)が即位した。しかしその頃の晋の世論は重耳を支持しており、重耳は秦の助けを借りて懐公を追い払い、ようやく即位して文公と呼ばれるようになった。こうして彼の十九年間に及ぶ亡命生活は終了したのである。

 文公(=重耳)は晋・宋・斉・秦の連合軍を組んで城濮(じょうぼく)の地で楚と戦い、その会戦で楚に大勝した。このとき文公は楚の成王との「三舎」の約束を守ったのである。こうして晋は中原諸侯の盟主となり、文公は晴れて覇者となったのである。

 楚の成王の孫の荘王は、楚の王の中でも名君中の名君と言われている。彼の逸話で面白いのが、「鳴かず飛ばず」という故事である。

 荘王が即位したとき、内乱がおきた。荘王はその内乱で命の危険にさらされた。王宮に帰った荘王は、三年間父の喪に服すことのしたのだが、実際は宴会を開き、彼を諌めた者は死刑にされた。

 伍挙(ごきょ)という賢臣がいた。彼は宮女と戯れている荘王に謁見し、「謎かけをいたしましょう」と言った。「丘の上に鳥がおります。この鳥は三年たっても飛びもせず鳴きもしません。この鳥は何でしょう。」伍挙は荘王を鳥にみたてて婉曲に諌めたのである。すると荘王は、「もしもその鳥が飛び上がれば天にも届くであろう。もしもその鳥が鳴けば大いに人を驚かすであろう。伍挙、さがれ。わしにはわかっている。」と言い、それからというもの彼は宴会をやめ、国政に専念した。そして荘王をみくびっていて私腹を肥やしていた臣を処刑し、賢臣や忠臣を昇格させた。荘王のもと、楚は国力を充実させ、人々は荘王をたたえた。

 軍備を整えた荘王は軍を発し、北上して周王の都・洛陽(らくよう)に進出した。このとき荘王は周王の使者に対して「九鼎の重さと大きさはいかがなものですか」と問うた。九鼎は天下を制した王の持つべき宝器であるが、言外にそれを自分に渡せ、と言ったのである。のちにその故事は権威のある者の実力のほどを試す、という意味の「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」という故事成語として日本でも使われるようになった。

 その後荘王は晋軍と一大会戦を行なって晋を破り、(?(ひつ)の戦い)実力で天下の実質的なあるじとなったのである。