2、稀代の名軍師・太公望

 

 太公望と日本語でいえば、魚つりをする人のことを指すが、殷周革命を起こした名軍師・太公望は、釣竿で天下をつり上げた人である。

 彼に関するエピソードはいろいろ伝わっているので、ここで『史記』に記述されているいくつかの伝承を紹介しようと思う。

 ある日、周の文王は猟に出る前に占いをして、その日の占いでは、今日の獲物は虎でも熊でもなく、名宰相である、と出た。はたして文王は太公望が釣りをしているのに出会い、彼と語り合ってその人物を確かめ、連れて帰って師と仰いだ。後に文王は太公望の策を用いて天下をとるのだが、自分の策を用いてくれる君主を釣竿でつり上げた太公望は、天下をつり上げた、とも言える。

 また、太公望はたいへん物知りであって、かつて殷(いん)の紂王(ちゅうおう)に仕えたが、紂王が無道だったのでそこから立ち去り、やがて周に行って文王に認められたという。

 あるいは、太公望は処士(在野の士)で、海辺に隠棲(いんせい)していたが、文王が紂王に捕らえられて?里(ゆうり)に監禁されたときに文王の側近から相談を受けたのが周と関係を持つきっかけであったともいう。

 『戦国策』には、太公望は東海(山東半島の沿海)に住んでいて妻に追い出され、殷の首都である朝歌で屠殺業をやっていて、子良という者の家来になったがそこも追い出され、棘津(きょくしん)で嫌われ者になって誰も雇ってくれなかったが、文王が認めて登用し、軍師になったという。

 他にも、太公望はかつて朝歌で牛を屠殺し、孟津で飯を売っていたなどという記述もある。

 とにかくここで知ってもらいたいのは、太公望は稀代の名軍師として語り継がれていれ、そしていろいろな伝承が後世の史家(司馬遷とか)に記述されたということである。いろいろな人物像があるからこそ、逆にどういう人物かわかりにくくなっている部分もある。

 そんな中でも宮城谷氏の『太公望』は上に記したようなエピソードをうまくよりあわせて太公望の人物像をつくり、殷の紂(ちゅう)王に殺された姜族(きょうぞく)の首長の子として描いている。彼は父の仇である紂王を討つべく諸国を巡って配下を増やし、やがて周の文王が紂王に捕らえられたのを救って文王に登用され、ついには軍師として連合軍を率いて殷を倒す、という物語になっている。この物語の一貫した主張は、太公望の殷への復讐、そして神権政治に対する太公望の合理性と「天」という思想をもつ周、という構図であると思う。そしてつまるところ、太公望という一大英傑が大きなきっかけとなって殷周革命を起こしたのである。
 太公望は文王に登用されたのだが、ここで彼の行なったことは大きく分けて二つある。一つは軍の整備で、軍の核となるべき虎賁(こほん)(周王の護衛部隊)をつくり、そのころ殷以外の国ではあまり生産されていなかった戦車を多数生産した。もう一つは西方諸国の懐柔で、周に味方してもらうべく、彼は数多くの諸侯や首長を訪ねた。その中でも召(しょう)という大国は妖術の国と呼ばれていて周と互いに反目し合っていたのだが、太公望が召を訪れ太公望と召公?(しょうこうせき)が意気投合して同盟した、というのは大きな意味があった。

 そして文王の死後、太公望は文王の子・武王を補佐して諸侯を集め殷を倒すのである。天下が平定されると彼は斉の地に封ぜられ、やがて商工業を盛んにし、海産物で利益があがるようにして斉を大国にしたという。