2、伝説の名宰相・伊尹

 

 夏王朝を倒した殷(いん)(商)の湯王を補佐し、新たな王朝を出現させた名宰相・伊尹は不思議な生まれかたをしている。

 彼の母親は伊尹(いいん)をお腹にはらんでいた時、夢に神のお告げを聞いたと言う。それは伊水に臼が浮かんでいたならば、東へ一目散に走って決して後ろを振り返ってはならぬ、というお告げだった。しかし翌日、彼女は臼が見えたのでお告げの通り東へ走ったのだが、十里行ったところで振り返ってしまった。すると彼女はたちまち一本の「空桑」となり、周りは一面水になった。伊尹は空桑の中にいるところを有?(ゆうしん)国の女性に見つけられ、有?の料理人に育てられた。やがて伊尹は料理の名人となり、のちに有?氏の娘が商の湯王と結婚したときにその召し使いとなって、湯王のもとで料理人として働いた。彼のつくる料理は湯王が彼に注目するきっかけとなり、やがて伊尹は湯王の側近となって王道実現を進めるようになったという。

 湯王は評判の良い王で、多くの諸侯が暴政を行なっていた夏を見限って殷に味方した。伊尹は湯王の怒りに触れて出奔するという演技を行なって夏に入り、情報収集や謀略工作を行なった。三年後に戻ってきた伊尹は、夏王朝はもう長くないことを湯王に報告して決起を勧めた。彼の勧めに従った湯王は夏の桀(けつ)王を鳴条(めいじょう)で破り、天下のあるじとなった。
 のちに湯王が死に、そして二人の帝が死んだ後、伊尹(いいん)は太甲(たいこう)を即位させた。このころには伊尹は宰相になっていて、適材適所を心がけて王朝を運営していたのである。太甲は遊んでばかりいてあまりできの良くない人物であったので、伊尹は彼を三年間追放し、その間は伊尹が政務をとったが、やがて太甲は過ちを悔いて戻ってきたので伊尹は彼を補佐するようになったのである。一国の君主を即位させたり退位させたりできた伊尹は辣腕(らつわん)家であり、人々も彼に全幅の信頼を置いていたのであろう。
 宮城谷氏の『天空の舟 小説・伊尹伝』では、伊尹は桀王の后と内通して彼女から情報を得た、などという伝承を巧みに利用して小説を構成している。この時代の史料は特に少なく、金文や甲骨文から一つ一つ史料を読み取っていかなくてはいけない。この時代の歴史は小説家にとって非常に描きにくいところであり、少ない記述をつなぎ合わせ、史料の空白部は作者の想像力で補わなければならない。まさに作者の筆力と想像力が問われるところであるが、宮城谷氏の卓越した能力と長年の研鑽(けんさん)が、我々にとって未知の世界を描き出したのである。