6、刺客?軻(けいか)

 

 刺客といえば、人々は今でも二千二百年前に死んだ?軻のことを頭にうかべる。『史記』の「刺客列伝」の最後を飾る彼の物語は、始皇帝の話と共に語り継がれてきた。
 秦の始皇帝(このときはまだ秦王・政)は幼年時代、趙に人質となっていた。燕の太子丹は彼と共に人質となっていて、この二人は小さい頃、とても仲がよかった。その後、政は強国・秦の王となり、燕の太子丹(たん)は今度は秦への人質として送り込まれた。ところが、秦王はこの竹馬の友を冷たく扱ったのである。太子丹はこれに腹を立て、秦を脱走して燕に逃げ戻った。それ以来彼は常に秦王に復讐してやろうと考えていた。
 そんな時、秦の将軍の樊於期という者が秦王の怒りに触れて燕に亡命してきた。太子丹はこれをかくまったが、重臣達は秦を恐れ、口をそろえて彼を追放しようと言った。太子丹は何としてでも秦に一矢報いるべく、奇策を用いることを考えた。秦王の暗殺である。彼は田光先生という処士に最高の礼を尽くして暗殺を引き受けてもらおうとした。侠士である田光は、これに死を賭してでも報いなければならない。田光はもう老いていたので、代わりに?軻(けいか)を推薦した。彼は?軻に暗殺計画を打ち明けた後、秘密を守る為自ら命を絶った。?軻(けいか)も田光が死んだ以上引き受けないわけにはいかない。田光のこの壮烈な死は、?死(きょうし)の一つの典型と言える。
 ?軻は、秦王を暗殺するために二つの手みやげを用意した。一つは燕の督亢(とくこう)の地図で、地図を献上するというのはその土地を割譲する儀式のようなものであった。もう一つは、樊於期(はんおき)将軍の首である。これについては、太子丹が断固として首を縦に振らなかったので、?軻は直接樊於期(はんおき)将軍の所へ行き、「あなたの首を持って秦王の所へ行き、彼を暗殺しましょう」と言った。?軻にそう言われると、樊於期は喜んで自らの首を刎ねた。二つの手みやげが整うと、太子は徐夫人の匕首(ひしゅ)という鋭い短剣を買い求め、それに猛毒を塗って地図の中に巻いて隠した。また、秦舞陽(しんぶよう)という十三歳の時に人を殺したことがあるという勇士を採用し、?軻の副使として随行させた。こうして、準備は整った。
?軻(けいか)一行が秦へいくのを、太子達は易水のほとりまで見送った。見送りの全員が喪服である白い衣冠をつけている。?軻達には万が一にも生還の望みはないからである。

易水のほとりで、親友の高漸離(こうぜんり)が筑(ちく)を撃ち、?軻はそれに合わせて歌った。そして一同は涙を流して泣いたのである。

風、蕭々(しょうしょう)として易水寒し

壮士、一たび去って復た帰らず

 ?軻の悲壮な歌を聞いて、人々はみな目を怒らし、頭髪はことごとく逆立って冠を差し上げようとしたという。

 送別の宴が終わると、?軻(けいか)は車に乗り、まっすぐに秦に向かい、二度とふりかえりはしなかった。秦王への謁見は許されることになった。このときの?軻の心は澄み切っていた。?軻、一片の心。唐の詩人李駕(りが)は、名剣の冴えた光を表現するのに、?軻の心になぞらえた。

 ?軻が樊将軍の首を入れた桶を持ち、秦舞陽が地図を入れた箱を捧げ持っている。ところが秦王の玉座の近くまでくると、秦舞陽は顔面蒼白になり、震えだした。群臣が怪しむ中、?軻は落ち着いてその場を取り繕い、秦王に地図を献上した。
 巻き物の地図をひらくと、匕首があらわれた。?軻はその短剣を素早く掴み、秦王を刺そうとしたが、刀の刀身が短く、驚いて身を引いた秦王の袖を切ったのみであった。秦王は長剣を抜いて防ごうとしたが、あわてていて抜けない。?軻は秦王を追う。あわやというところで、秦王の侍医が?軻に薬嚢を投げつけた。秦王はわずかの差で凶刃を逃れる。近臣は剣を抜き易いように、「王よ、剣を背負いたまえ!」と叫んだ。ようやく長剣を抜いた王は、?軻の左股を斬りつけた。?軻は倒れたまま、秦王めがけて匕首を投げつけた。けれども狙いは外れて、匕首は空しく柱に突き刺さった。?軻は息絶えた。
 こうして、始皇帝暗殺計画は失敗に終わった。しかし始皇帝を刺そうとした?軻の壮絶さは、戦国時代のキャラクターの中でもひときわ目立っていると共に、任侠の鑑として後世にその名を留めているのである。