4、戦国四君(孟嘗君・信陵君・平原君・春申君)

 

 戦国時代は各国で有能な人物が登用され、もてはやされた時代である。有力貴族達も食客といって一芸に秀でた人々を集め、自分の客として遇していた。能力が価値を呼び、能力を持つ者がより高価にそれを買う買い手を求めて天下を流浪し、人材がいわば商品化するまでになったというのが戦国末期の特徴である。戦国四君は、その中で特に食客を多く抱えていたものしてその名を知られていて、その門下に食客三千人、と言われた。ここでは特に盛名が伝わっている孟嘗君と信陵君について書いてみた。
 孟嘗君(田文)は、斉の宣王の頃の宰相、靖郭(せいかく)君(田嬰(でんえい))の庶子であった。彼の母親は身分の低い側室であったが、ある日靖郭君の子をはらみ、五月五日に赤子(孟嘗君)を生んだ。自分の子供が生まれたというのに、靖郭君は「五月五日に生まれるのは不祥の子だ」と言い、棄てるように命じた。この時代の人々は大真面目にこういったことを信じていたのである。棄てるように命じられたにも関わらず、孟嘗君の母親は密かに彼を育て、孟嘗君は大きくなると靖郭君との対面を果たした。この席で靖郭君は、「なぜこの子を棄てよと命じたのに、育てたのか?」と彼の母親に問いただした。すると孟嘗君は、「五月五日の子は昔から身長が戸と同じ高さになれば、その父母を害する、と言われていますが、いったい人の命は天から授かったものですか、それとも戸から授かったものでしょうか。天から授かったものであるならば何の心配もいりませんし、仮に戸から授かったものであるならば、その戸を高くすればよいではありませんか」、と論じた。靖郭君は「もうその話はやめよ」と言ったが、孟嘗君の才能を内心頼もしく思った。また孟嘗君は蓄財をやめ、その金で人材を集めることを父に提案した。こうして彼のもとに多くの食客が集まり、彼の名声は高まった。靖郭君も、孟嘗君を後嗣に指定せざるを得なくなった。
 孟嘗君は薛(せつ)という地の領主になり、その地には多彩な人材が集まった。すると孟嘗君の賢を聞いて、秦の昭王が彼を宰相として招いてきた。食客の中に諜報の名人がいて、昭王が本当に彼を宰相にしたがっていることを伝え、孟嘗君は秦に赴いた。しかし彼が秦に行くと、秦の大臣の中に彼を陥れようとするものがいて、その大臣は昭王に彼は斉の宰相の子で、彼を登用すれば秦の国政は斉の思い通りにされるだろうと言い、その言葉を信じた昭王はなんと孟嘗君を殺そうとした。その情報は食客の働きによりすぐに孟嘗君の知るところとなったが、彼は打開策を講じなければならない。孟嘗君は昭王の寵愛を受けていた幸姫に口説きの名人を送り、すると幸姫は狐白裘(こはくきゅう)を孟嘗君を釈放するよう王を口説く代価として求めてきた。狐白裘は非常に珍しい狐の上着であり、そのころ世の中には一着しかないと言われていた。しかもその狐白裘は孟嘗君が既に昭王に献上してしまっており、孟嘗君の手元にはない。

 全ては万事休したかに思われた。すると、孟嘗君の食客の一人で、泥棒、すなわち「狗盗(くとう)」をやっていた者が進み出て、王宮の府庫の中から孟嘗君が献上した狐白裘を盗み出してくる、と言った。これは見事成功し、狐白裘を幸姫に献上した孟嘗君は自由を取り戻し、しかしいつ昭王の気が変わるか知れないので急いで秦国を脱しようとした。国境の関所である函谷関に着いたのは、夜半のことであった。異常聴覚の持ち主がはるかかなたにいる追っ手の一団の音を聞きつけ、報告した。もはや一刻の猶予もない。関所は夜中は閉じられており、明け方、鶏の鳴き声が起こるまで開かない規則になっている。ここで動物の鳴き声の名人が進み出て、鶏の鳴き声をまねた。これにつられて関所周辺の鶏が一斉に鳴き出し、関所の役人は規則に従って門を開けた。孟嘗君の一行は偽造の名人によって作られた関所手形を見せ、虎口を脱することができた。

 これが有名な「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」のエピソードであり、どんなことであり、一芸に秀でた者はどんな所で役立つかわからないというニュアンスの言葉として知られている。

 孟嘗君は度量が大きく、生来の客好きであったが、大侠(だいきょう)と呼ぶべきなのだろうか。侠者(きょうしゃ)とは、何かの為に自分の一命を惜しげもなく捨てることのできる人間の事を言う。むしろ孟嘗君の客の側に、侠者は多くいたのではないだろうか。そのうち「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」のエピソードでその行ないが伝わっている者もいる。しかし、名前が伝わらなかった人も多くいたはずなのである。命を失うことも惜しまないが、名前が伝わらないことも惜しまない。これがまことの任侠ではないだろうか。

 魏(ぎ)の公子・信陵君(しんりょうくん)は、のちに漢帝国を樹立した劉邦もが敬慕してやまなかった人物として知られている。次に書くエピソードは、信陵君の侠気(きょうき)を示すものとして永く民衆に伝わってきたものである。
 魏の都・大梁に候生(こうせい)という老門番がいた。彼は隠者であったが、食客から彼の才能を聞いた信陵君は、自ら門番小屋に出向いて自分の食客になってくれるよう頼んだ。このとき候生はこの申し出を丁重に断った。これに懲りずに信陵君はまたやってきて、せめて自分の邸で開かれる宴会に出席して欲しいと言い、数日後、大宴会の用意をして自ら馬車を御して老門番を迎えに行った。候生は信陵君を待たせた末、断りもせず馬車の上席に乗りこんだが、信陵君は温厚な様子であった。
 次に候生は、市場に寄るように信陵君に頼み、市場で肉屋の朱亥(しゅがい)という者と長い間立ち話をしていた。信陵君の車の周りはみるみるうちに黒山の人だかりとなったが、ここでも彼はにこにこしていた。もちろん、これは候生が信陵君を試していたのである。のちに宴会が終わった後、候生は言った。

「私にはもう、公子にして差し上げた事があります。お迎えを受けた折、私はわざと横柄に構えて公子がいかに度量の広いお人柄であるかをお見せしました。」

 信陵君は、「おお、それは知らなかった。」と、大きなため息をついた。

 候生も、信陵君にこのように厚遇してもらったので、食客にならざるを得ない。彼はこの時点で侠死(きょうし)を予約したとも言える。それに対し、肉屋の朱亥は信陵君の誘いを断った。

 さて、その頃の秦は手がつけられないほど強くなっていて、趙(ちょう)は都・邯鄲(かんたん)を包囲されていた。魏王は一度、趙への救援の兵、十万を出したものの、秦の恐喝を恐れてその軍を趙との国境に留めておいた。趙王の弟の平原君(へいげんくん)は、信陵君に何度も救援の督促をした。任?の士である信陵君は、義勇兵を率いて趙を救援することにした。大義に殉じるための、斬り死に覚悟の出陣である。三百人の食客を率いて、信陵君は大梁の門を出た。このとき候生は門番小屋にいたが、信陵君が門を通った時、「年をとった私はお供できません。公子の御武運を祈ります。」とのみ挨拶した。信陵君は彼の態度を不信に思い、門外から車を返してもう一度候生に会った。このとき、候生は必勝の策を献じるのである。すなわち、国境に留められている魏の十万の兵を奪う、というものであった。軍に命令を下すことのできる「虎符(こふ)」の片方は王の手元にあり、片方は軍の司令官が持っている。王が持っている虎符を昔、信陵君に助けられた王の寵妃である如姫(じょき)に盗んでもらうのである。むろん、信陵君は利害を越えて生きている人なので、そういったことは忘れていた。候生の的確な助言によって信陵君が売った恩もまた生きたのである。また、候生は肉屋の朱亥(しゅがい)を「必ずお役に立つでしょう」と言って推挙した。朱亥は兵権を渡そうとしなかった軍司令官を撃ち殺して兵を奪うことに成功した。
 結果としてこの策を用いた信陵君は奇勝を博するのだが、候生は信陵君が戦場に到着した日に、自ら自分の命を絶った。これは朱亥に撃殺された司令官への供養ということもあり、またこれは恩に対しては賢という商品で返しうるが、しかしそれ以上に自分の全人格を尊敬されてしまった場合には返しようがなく、死をもって報いるしかない、という士としての気風が戦国末期にすでにできていたことをあらわしている。
 この戦いの後、信陵君は六カ国の連合軍を率いて秦軍を撃破するなどして反秦の象徴のような存在となる。のちに劉邦はこの大?を自らの手本とし、信陵君の祭祀を絶やさぬようにした、と伝えられている。