3、魯の侠士・曹沫

 

 魯という国は、春秋時代、大国・斉の隣に位置しており、いつも軍事力で斉に圧倒されていた。曹沫(そうばつ)が生きていた時代も、魯はのちに覇者となる斉の桓公の出現により強大化していた斉に押されていた。
 そのとき村人に過ぎなかった曹沫は、「肉を食べている人(貴族達)は頭が悪い」と言い放って魯の首都・曲阜(きょくふ)に赴き、首相の臧孫達(ぞうそんたつ)に戦術を説いて魯の荘公(そうこう)への面謁を賜った。彼は荘公に気に入られて抜擢され、将軍に採用された。その期待にこたえ、彼は長勺(ちょうしゃく)で斉(せい)軍を破り、乗丘(じょうきゅう)にて宋軍を撃破した。しかしのちに斉との戦いで三戦三敗してしまった。魯は旧体制の国であったから、重臣たちからは抜擢されたのに敗退を続けた曹沫(そうばつ)に対する不満が噴出した。曹沫は自刃しようとしたが、荘公はそれを止め、彼の敗戦を不問に付した。
 しかし曹沫の敗戦により魯は多くの土地を斉に削られており、さらに斉はその土地が斉のものであるということを認め、盟約を結べ、と魯に強要した。そしてその盟約会議は柯(か)の地で行なわれた。盟約の壇上には斉の桓公(かんこう)とその宰相・管仲(かんちゅう)がいた。と、そのとき、曹沫が走り出て、匕首(ひしゅ)(あいくち)を壇上の桓公に突きつけたのである。彼は管仲に言った。「大国である斉が小国の魯を侵すのに、度を越しておりましょう。奪った領土を返還して頂きたい。」菅仲は桓公に承諾するように促し、匕首を突きつけられていた桓公はこの条件を呑まざるを得なかった。
 春秋時代で最初の覇者と呼ばれる斉の桓公にこれだけ大胆な脅迫をした男は、後にも先にも曹沫ただ一人であった。これは彼の簡潔な思想の表われでもあり、すなわち他国の兵を殺して得るものと、剣一つを敵の君主に突きつけて得るものと、どれほどの違いがあろう、ということである。
 『史記』の「刺客列伝」は筆頭に曹沫を載せているが、彼の明快な精神はのちの戦国期に生まれた侠(きょう)の精神のさきがけとも言えるのではないだろうか。自分を信頼して用いてくれた主君の荘公に恩を返す、という意味合いでも。曹沫の行動は、自らの失敗をこうした無謀な行動で取り返そうというものであったが、彼の、それこそ死を決した必死の思いが菅仲や桓公をうち、この試みは成功を修めたのである。大きな目で見れば桓公・菅仲の引き立て役であったとも言えるが。