2、司馬遷の生涯

 

 司馬遷は前145年に歴史官の家に生まれた。彼は幼少より古典を読み、さまざまな文学に通じていたらしい。前110年に、漢の武帝は天と山川を祭る、封禅の礼を行なったが、歴史官の長を務め、当然招かれるべき司馬遷の父は出席を許されず、彼はそれに憤って自殺した。司馬遷は父の遺言を受けて『春秋』以来の歴史を埋める『史記』の著述を始める。
 前99年、漢の将軍・李陵(りりょう)が匈奴(きょうど)との戦いに敗れ、捕虜となる。李陵はわずか歩兵五千を率い、果敢に匈奴の大軍と戦い奮戦した人物である。しかし武帝は彼が匈奴に降ったことを怒り、彼の家族を処刑しようとした。武帝は名君であったが、その時はもう六十歳に近く、怒りっぽい人物になっていた。帝の周辺の重臣達は、帝の怒りに触れないよう皆、口を極めて李陵の売国的行為を罵った。しかし司馬遷だけははっきりと李陵を褒め上げた。別に普段から彼と特別親しかった訳ではない。しかし、彼は言う。李陵は平生、一身を国家の急に殉ずる国士の風があり、今不幸にして事一度破れたが、身を全うし妻子を安んずることをのみ願っている君側の佞臣(ねいしん)が、彼の一失を取り上げてこれを誇大歪曲(わいきょく)しているのは遺憾この上極まりない。李陵が善戦した末匈奴に降ったというのもひそかに期するものがあるからではないだろうか。
 並み居る群臣は驚いた。そして司馬遷の態度はあまりにも不遜な態度である、という皆の一致した意見により、彼は宮刑に処せられた。宮刑とは、男を男でなくす(去勢する)刑罰である。
 司馬遷はこの刑に遭い、茫然とした。かれは死刑に処せられることに対してはもとより覚悟していたが、まさか自分がこのような醜いことになるとは思っていなかった。自分は正しいことをしたというのに、なぜこんなことになるのか…
 しかし、彼は死ぬことはできなかった。父の遺言である『史記』を書かねばならなかったのである。彼はこの世に生きることをやめ、書中の人物としてのみ生きるようになった。
 そして、刑に遭ってから8年。合計130巻、52万6500字の『史記』が完成したのは、既に武帝の崩御に近い頃であった。司馬遷は、一身をこの一大歴史書の編纂にかけたのである。
 戦国時代には多くの任侠(にんきょう)の士がいたが、この中で名前が伝わっているものはわずかである。その中でも名前が伝わっている「刺客列伝」などに登場する代表的な任侠の士のエピソードを紹介しようと思う。