1、司馬遷の『史記』

 

 司馬遷の『史記』は、前90年頃、漢の国力が最も盛んであった武帝の時代に完成された一大歴史書である。『史記』は、「本紀(ほんぎ)」「書(しょ)」「表(ひょう)」「世家(せいか)」「列伝(れつでん)」から構成されており、「本紀」は各王朝の歴史、「書」は歴史評論集、「表」は年表、「世家」は諸侯らの事績、そして「列伝」は個人の伝記のことである。このように「本紀」と「列伝」が組み合わさった歴史書の構成を「紀伝体(きでんたい)」と言い、司馬遷に発明されたこの構成は以後の正史の模範となった。また、「列伝」を取り入れたのは、司馬遷が歴史とは単に時代の流れを追い、有名な王や将軍の足跡のみを取り上げてみるのではなく、歴史は刺客や?客(きょうかく)など歴史の大きな流れとは関係なさそうな人々やその時代を生きたさまざまな人間によって作られたもので、多角的な視点で彼らのことを知ることにより歴史をより理解できるということを知っていたからである。

 『史記』は、その大半がその当時の近代史および現代史の記述であった。すなわち司馬遷は、みずからが生きていた時代を正しく理解するために『史記』を書いた、とみることができる。

 さて、春秋・戦国時代から秦・漢の時代にかけて、我々が?(きょう)の精神と呼ぶものが中国にあった。そのころの中国人は人の恩には必ず報い、また受けた仇は必ず返す、という一直線の感情をもって行動していた。これは戦国の気風が生み出したものであると言えるだろう。戦国という乱世は活発な思想の時代であり、さまざまな要素が入り交じって中国史上類がないほどの鮮やかさで個人を成立させた。またこの時代、王朝は頼むに足りず、個人が互いに横に結んで守りあわざるを得なかった。いったん結べば、すべての保身や利害の計算を捨てて互いに相手を守り合うという?(きょう)の精神が作動した。?には理屈がなく、それそのものが目的であった。そして中国では?の精神がその後さまざまな形で人々の精神に影響を与えるようになった。
 司馬遷は「刺客列伝」などにこのような?の精神を持つ人々の列伝を載せている。彼以外の史家はこういったものを史書には載せなかったが、司馬遷はこれを積極的に取り入れた。
 ここで彼の生涯を追ってみたい。彼自身も波瀾万丈の生涯を送ったのである。