おまけ

 

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の逸話
(文責:  )

 この話はあくまでも史実ではなくエピソードとしてとらえてもらいたい。?軻ほどではないけれど、長篠の合戦でも(この年の全体研究のテーマは長篠の戦い)泣ける場面がある。(侠の精神とは関連しないのかなあ)長篠城が落城寸前となった時、援軍を確認に鳥居強右衛門という下級武士が使いした。援軍を確認した後、戻るのを止められるも「城兵は私の報を待っている」といって戻りはじめた。ここらでもう感動的(?)なのだが、城の手前で武田軍に捕まえられるのである。そこで、「おまえを磔にするから、援軍はこないといえ。そうすれば助けてやる。」といわれ、鳥居はなぜか承知してしまう。しかし磔にされて、なんと「援軍がくるからがんばれ」と叫んだのである。そこで話が違うと武田方が怒って殺してしまったというわけである。自分の命を省みずに任務を優先した鳥居。まさに泣けるじゃありませんか。

忠義の士・解揚

 上にあるような話が、中国・春秋時代にもあったそうだ。

 前597年、楚の荘王は?(ひつ)の戦いにおいて晋軍を破り,覇権は楚に移行していいた.そしてその戦いの二年後、楚は晋の同盟国である宋を攻め、首都の商丘を包囲した。宋では何度も晋に援軍の使者を立てたが、楚に大敗している晋は出動することができない。ここで晋の首脳は苦慮の末、一計を案じた。それは勇者を宋に派遣して「晋の援軍は来る」と言わせ、降伏せぬよう励ます、というものであった。

 解揚という士がその勇者に志願し、宋へ向かった。が、途中の鄭で彼は捕らえられ、楚の本陣まで送られてしまった。楚の荘王は解揚をなんと賓客のごとく扱い、やがて「晋の援軍は来ない」と城内に呼びかけるよう頼んだ。解揚はそれをしぶしぶ承諾し,やくらの上にのぼって宋城へ向かって大音声を発した。「晋の援軍はまもなく到着しますぞ!」

 これを聞いた荘王は激怒し、剣を抜いてなぜ言葉を翻したのか、解揚を問いただした。それに対し、解揚は、「自分は君命を果たそうとしたまでである。信義を通したまでである。」と答えた。荘王はこの言葉にいたく感動し、解揚を赦免した。解揚はゆうゆうと楚の陣のなかを通って帰途につき、のちにその勇名は天下に鳴りひびいた。

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