5、諸葛亮孔明の登場

文責:伯約(中3)

 

 曹操が管渡を統一した頃、劉備は劉表の元に身を寄せ荊州北部の新野に駐屯していた。劉備の客将として傘下に入っていた徐庶は「諸葛亮という男は臥龍(寝ている龍)です。将軍は彼に会いたいと思われますか?」と劉備にたずねた。荊州に入ってから賢人を集めることに熱心になっていた劉備は「是非その人に会いたい。君、連れてきてくれ。」と徐庶に言ったが、徐庶は「この人はこちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくることは出来ません。将軍自身、車をまげて訪問なされるのが良いでしょう。」と言った。劉備はそれを聞いてますます諸葛亮に興味がわき、自ら諸葛亮を訪問しおよそ三度の訪問の末、やっと会うことができた。「演義」ではこの場面は「三顧の礼」と呼ばれ三国志屈指の名場面とされているが、「正史」にはそれ程の重要性を感じさせるような記述は無い。また最近では諸葛亮の方から劉備に会いに行ったという説が有力となっており、「演義」での「三顧の礼」は劉備と諸葛亮の関係を美化するための作り話とも考えられる。
 劉備は諸葛亮の家に入ると人払いをして、天下の情勢について諸葛亮と二人で論じ始めた。
 劉備が「漢朝は傾き崩れ、姦臣が天命を盗み、皇帝は都を離れておられる。わしは、自らの徳や力を思慮に入れないで、天下に大義を浸透させようと願っているけれども、知恵も術策も不足しているため、結局つまずき今日に至っている。しかし志は今なお捨てきれない。君はどうすればいいと思うか?」と問うと、諸葛亮は
 「董卓の蜂起以来、群雄は割拠し、州にまたがり郡を連ね、のさばる者は数え切れない程であります。曹操は袁紹に比べますと、名声は小さく軍勢も少なかったのですが、それでいて曹操は結局袁紹に打ち勝って弱者から強者になり得たのは、単に天に与えられた時節だけではなくそもそも人間の成す計略のお陰です。今曹操はすでに百万の軍勢を擁し、天子を擁立して諸侯に命令を発しており、これは実際対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配して、すでに父の孫堅、兄の孫策以来三代を経ており、国家は堅固で民は懐き、賢人も能力者も彼の手足となって働いており、これは味方とすべきで敵対してはならない相手です。荊州は、北方は漢水・?水にまたがり、経済的利益は南海にまで達し、東方は呉会に連なり、西方は巴・蜀に通じていて、これこそ武力を役立てるべきであるのに、領主はとても持ちこたえることが出来ません。これこそ点が将軍の御用に供している土地といえましょうが、将軍にはその意思がおありですか?益州は、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広がる天の蔵とも言い得るところであって、高祖はこれを基に帝業を成し遂げました。領主の劉璋は暗愚で、張魯を北に控えており、人口は多く国は豊かであるにも関わらず、福祉に心を砕いていないので、知能ある人士は明君を得る事を願っております。将軍は、皇室の後裔であるうえ、信義が天下に聞こえ渡り、英雄達も掌握されて、喉が渇いた者が水を欲しがるように賢者を渇望しておられます。もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族を懐け、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下に一旦変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を苑・洛に向かわせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、民衆は全て弁当と水筒を携えて将軍を歓迎するでありましょう。真にこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。」と答えた。
 劉備は「なるほど」といって納得し諸葛亮を参謀として厚遇した。こうして諸葛亮と劉備との交情は、日に日に親密になっていった。関羽や張飛は不機嫌であったが、劉備が「わしに孔明(諸葛亮)が必要なのは、ちょうど魚に水が必要なようなものだ。諸君らはもう二度と文句を言わないで欲しい。」となだめたため、何も言わなかった。
 諸葛亮は劉備の期待に応え、傘下に加わってから半年足らずで、わずか一万程度の兵で十万の夏候惇軍を博望波にて打ち破ったり、新野の戸籍を整理して兵を集め軍勢を強化したりと、様々な手柄を立てた。
 曹操は、袁紹の領土であった河北がひと段落着くと、中国南部の荊州・江東を手中にするべく大軍率いて自ら出陣した。荊州は、群雄が割拠し戦乱に明け暮れていた中原から離れ、「清流」派の太守劉表が土着豪族の櫂氏・祭氏らと組んで荊州内の諸勢力を平定し、内政・軍事面で著しい成果を挙げて形成した一大王国である。しかし、曹操軍が押し寄せてくる緊急事態のさなか、荊州を治めている君主・劉表は病死し、長男・劉gは自分を殺そうとしている祭一族の手から逃れるため、劉備・諸葛亮に策を授かり江夏に移っていたりと、荊州の都・襄陽は安定しておらず曹操軍とまともに戦えなかったため、一戦も交えず降伏してしまう。また、それにより荊州の地に拠って曹操軍と戦おうと考えていた劉備軍も南への退却を余儀なくされ、退却の途中で追撃してきた曹操軍に長坂坡で撃破される憂き目にあっていた。
 そして曹操軍は兵力をさらに増強し、劉備・孫権へと攻撃を開始するのである。

 

(***k)
〔諸葛亮図〕(『三国志ハンドブック』より)

 

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