4、官渡の戦い

文責:奉孝(中2)

 

 その時曹操は、エン・予の二州を基盤に、対する袁紹は冀・幽・青・并の四州を基盤に一大勢力を張り、数十万の兵力を誇っていた。袁紹の支配する冀州一州だけでも「民戸百万家」を有するほど、条件に恵まれていた。袁紹は「四世三公」の名門であり、実力的にも、格からいっても、曹操は到底袁紹にかなわないと思われていた。袁紹はついに曹操攻略にかかる腹を固めた。だが、諸将の意見は沮授や田豊らの持久戦派と、郭図や審配らの即決戦派の二つに割れていた。沮授らは、曹操は大義名分を手にしているので、攻めて汚名をこうむることを指摘し、まず曹操と対等の立場に立った上で、ゆったり構えれば三年で戦わずして天下を取れると進言した。一方、郭図らは、大義名分より、圧倒的兵力にものをいわせて一気に決着をつけようと主張した。結局袁紹が即決戦派の意見を採用し、南征が決まった。
 一方、曹操の諸将は、袁紹が攻めてくるとの知らせに浮き足立っていた。だが曹操は落ち着き払っていた。

 「袁紹は野心は大きいが、知略が伴わない。要望はいかついが、肝がすわっていない。猜疑心が強いか、部下を心服させられない。兵は多いが、統制がとれていない。将軍どもは威張りくさっていて勝手に命令を出しておる。これではわしには勝てぬ。」

 八月、曹操は黎陽に軍を進めた。別働隊に青州の各地を攻略させた。一方、于禁を駐屯させて黄河の防衛にあたらせた。いったん許都に帰った曹操は、みずから劉備討伐の決意を固めた。

 「袁紹という大敵と事を構えている最中だ。こちらまで曹操も手がまわるまい。」

 と、劉備はたかをくくっていた。そこへ曹操自らが攻めてきたことを聞いた劉備は、兵を置き去りにして、一目散に遁走した。かくて曹操は、あっさり劉備の軍勢を手中に収めたばかりか、劉備の妻子と関羽を生け捕りにして帰還した。実はこのとき、袁紹軍の参謀田豊は、袁紹に曹操の背後をつけと進言していた。だが袁紹は、息子の病気を口実に出兵を許可しなかった。許都に戻った曹操は、関羽を処分するどころか、偏将軍に任命して、下にもおかぬ厚遇をした。一方劉備は青州へ逃れた。青州刺史の袁譚は劉備を迎え、袁紹のもとへ送り届けた。

 南征に出る直前、田豊は袁紹にこう言って諫めた。

 「曹操は用兵に巧みで、小勢だからといって侮ってはなりませぬ。即戦即決を避けて持久戦に持ち込むべきです。しかし、我が君はこの一戦にすべてをかけようとなさる。成功すればよろしいが、失敗したら悔やんでも悔やみきれませんぞ。」

 だが袁紹は、まるで耳を貸そうとせず、田豊を引っ捕らえ、牢にぶちこんでしまった。

 

(***k)
〔官渡の戦いの前の勢力図〕(『早わかり三国志』より)

 

 翌200年2月、ついに袁紹が動いた。顔良らの武将に命じて、劉廷の守る白馬の攻略に向かわせる一方、自らは黎陽に進出した。対する曹操軍は、黄河を渡って敵の背後をつく態勢をとった。袁紹はすぐさま兵を二手に分け、主力を西に向かわせた。すかさず曹操は顔良を奇襲して、関羽は顔良を討ち取るなど。めざましい活躍をした。かくて戦いの帰趨は決し、袁紹軍は白馬の囲みを説いた。袁紹は全軍に渡河を命じ、撤退する曹操軍を追ってきた。曹操は輜重をおとりにして、追ってきた文醜軍を奇襲して、文醜を討ち取り壊滅させた。袁紹軍は震え上がり軍を停止させた。曹操は、軍を官渡にとって返した。このとき関羽は劉備のもとへ去った。
 緒戦で敗北を喫したとはいえ、兵力、輜重と袁紹側が優位なことに変わりはない。袁紹は一気に官渡に攻め下ろうとした。黄河を渡り終えると、沮授は諫言した。

 「我が軍の方が兵力、兵糧ともに勝っています。ですから、敵にとって短期決戦が有利、我が方にとっては持久戦が有利です。ここはじっくり腰を据えて攻撃すべきです。」

 だが、袁紹はまた聞き入れなかった。八月に入り袁紹は東西数十里にわたる布陣を敷いた。このころ袁紹側では、参謀の一人、許攸がこう進言した。

 「もはや曹操とは戦う必要はありますまい。許都に急襲をかけ。天子をお迎えするのですさすれば、一気に決着がつきます。」

 だが、袁紹は怒鳴り返し拒否した。許攸は腹を立てながら引き下がった。一方、劣勢に立たされた曹操軍は、陣営深く引きこもって抵抗を続けた。

 戦いが長引くにつれて、曹操軍の兵糧輸送がとどこおり始めた。曹操軍はしきりに戦って敵将を討ち取るものの、兵力が劣勢な上に、兵糧が底をついてきた。対する、袁紹軍も兵糧の補給に迫られた。袁紹軍の弱点は、攻め込んでいる分補給路が長く、大軍だけに膨大な量を必要としたことである。袁紹は淳于瓊に兵一万余を授け、輸送隊を迎えに北上させた。
 開戦から半年を経た十月、いくら献策しても拒否された袁紹軍の参謀許攸が、曹操陣営に投じてきたのである。

 「袁紹は現在、一万台あまりの輜重車を後方の故市と烏巣に結集させております。しかし、敵はまったく警戒していません。ですから、軽騎兵で襲撃して、兵糧の山を焼き払えば、三日とたたずに袁紹軍は自滅するでしょう。」

 曹操は手放しで喜び、さっそくその夜出撃した。袁紹軍の偽装をした曹操軍は阻まれることなく烏巣に到着した。曹操軍は死にものぐるいで戦い、ついに烏巣を落とした。一方、袁紹は曹操が烏巣を攻撃している隙に、曹操軍本陣を、張?と高覧に出撃を命じた。ところが烏巣が落ちたと知って、張?らはそのまま曹操側に投降してしまう。袁紹軍は総崩れとなった。

 袁紹の長男の袁譚は、軍勢を打ち捨てて黄河の対岸に逃げ込んだ。曹操は袁紹軍の残していったものを収容して、多大な戦果をあげた。袁紹はなんとか立て直したが、官渡で受けた深手は癒しがたく、やがて病を発し、敗戦から二年後の202年、失意のうちに死んだ。
 少し前に戻る。200年曹操と袁紹が官渡で決戦している最中、孫策は曹操の本拠許都を襲撃しようとしたが、もと呉郡太守許貢の食客に殺害されてしまった。

 

目次