2、黄巾の乱終息から董卓入都、董卓死亡まで

文責:勝利王(高1)

 

 張角(ちょうかく)の病死後、連携を崩された黄巾軍は個別に撃破され、年内にはその主力は壊滅した。しかし、黄巾軍が完全に壊滅したわけではなくいまだ各地で反乱は起こっていた。これらの反乱軍は少なからず後の群雄達の軍隊へと吸収されていったようだが、彼らの活動は長期にわたって行われた。
 この状況の中、後漢政府の統治能力の欠如が明白になってくると、朝廷の高官の中に後漢に見切りをつけて自存をはかろうとする者が出てきた。188年に州牧制が作られると、中央政府の高官がその任に派遣されるようになる。将軍号をもって軍事権を与えられた州牧の権力は州の長官よりも大きく、このことは地方官の中央政府からの離反を助長するものとなった。
 これに対し中央政府は同年188年に西園八校尉という新しい軍を設置したが、これは同年に霊帝(れいてい)が無上将軍と名乗って行った軍事演習とも重なって、乖離しつつある地方の軍事力に対抗する中央軍の設置の必要性を認めた結果であった。
 だが、その後中央政府においてまたもや深刻な対立が生じることとなる。霊帝の死後西園八校尉のトップであった上軍校尉の宦官蹇碩(けんせき)と、外戚の何進(かしん)が対立し、何進は西園八校尉のひとり中軍校尉の袁紹(えんしょう)のすすめにより宦官達の抹殺を計画、并州の牧であった董卓を都に呼び寄せその軍事力を利用しようとした。
 しかし宦官達は何進達の先手を打ち何進は斬られてしまう。これに対して袁紹は兵を率いて宮中に乱入、そこで宦官達をまさに、殺戮した。殺された者達は二千人余りとされ、中には髭がなかったために宦官と間違われ斬られて殺された者もいたという。それほどこの袁紹の宦官殺戮は徹底したものだったといえる。これによって勢威をふるっていた後漢の宦官達はその跡を絶った。
 しかし後漢政府の混乱は外戚と宦官の争闘が終結してもおさまることはなかった。
 董卓が袁紹の宦官皆殺しの混乱に乗じて洛陽に入京。権力を手に入れた董卓は何進の姉の何太后(かたいごう)を殺害。太后の生んだ小帝劉弁(しょうていりゅうべん)を廃し、その後群臣達の反対を押し切ってその弟の劉協(りゅうきょう)(献帝)を擁立し、その後小帝を毒殺する。
 こうして洛陽は董卓によって占拠されてしまった。袁紹らは同地を出奔する。また董卓率いる軍団は規律を欠き暴虐を欲しいままにしていた。これに対して後漢の官僚や地方官達によって半董卓連合が結成された。彼らの中には自営のために自らの一族や勢力下の農民達を組織した豪族らも加わっており、それぞれの武力集団の一部又は大部分を構成していた。西園八校尉の一人で洛陽を脱出した曹操(そうそう)は、この時に家財を投じて、募集した兵を率いて連合軍に参加している。

 

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反董卓連合の勢力図(『早わかり三国志』より)

 

 ところで、曹操(そうそう)の祖父の曹騰(そうとう)は宦官で、この頃には曹氏は豪族に成長していた。曹騰の養子、つまりは曹操の父であった曹嵩(そうすう)は売官の形ではあったが大尉の地位にまで登りつめている。(宦官は男性の生殖能力をなくしていたため、自らの子供を作ることは不可能であった。)
 曹操自身は黄巾(こうきん)の乱の際、騎都尉(近衛騎兵隊長)として従軍、その後は済南国の相(王国担当の政務知事)となり官僚としての能力を遺憾なく発揮するが、目立ちすぎることによって宦官達からの反感をかい、一族に迷惑をかけるのではないかということを恐れて、役職を辞任。その後は故郷へ帰った。
 だが、曹操のような切れ者を放っておくはずもなく、188年の夏に新設の近衛軍、つまり西園八校尉の部隊長として都に呼び戻されることとなる。ちなみに父の曹騰が大尉になったのはその前年の187年である。

 

 話を元に戻して、反董卓連合軍の盟主は、四代にわたって五人の三公を輩出した名門袁氏の御曹司の袁紹(えんしょう)であった。(以前に何進(かしん)とともに宦官抹殺を計画している)董卓は洛陽を焼き払い、住民ともはや自らの操り人形にしか過ぎなかった献帝(けんてい)をつれて長安(ちょうあん)に都を移した。この時190年であった。この時に後漢は滅びてしまったと考えて良いだろう
 その一方反董卓(とうたく)軍として集まった武将達は積極的な攻撃に出ることはなくそれぞれ自らの地盤の確立と勢力圏の拡大に力を入れるようになり、このように群雄割拠の形成が決定的となった。
 また、長安(ちょうあん)にいた董卓は192年に部下であった呂布(りょふ)に父母妻子兄弟姉妹共々殺されてしまう。

 

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193年前後の大陸の群雄(『早わかり三国志』より)

 

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