1、後漢の衰退と黄巾の乱

文責:菅家(高1)

 

後漢の衰退
 後漢は光武帝(こうぶてい)が即位した後、200年ほど続くが、権勢があったのは前期3代の皇帝の時代で、その後は幼帝が即位するか、あるいは皇帝が短命であったという不安定な社会だった。
 幼少の皇帝は、先帝の皇后に補佐されるようになり、先帝の皇后(皇太后)一族が権勢を振るった。「外戚」である。
 もう一つの勢力は「宦官」。皇帝の身辺の世話などをする下級の官人で、他の官僚や社会からも疎まれていたが、君主の身辺に仕えたことから信頼を得、ある皇帝の時代に外戚勢力を除くための手段として使われたことから、勢力を得るようになった。
 幼くして即位した皇帝も、成人すれば親政(皇帝が自ら政治を行うこと)を敷きたくなる。そこで外戚を除こうと宦官を使うのだが、外戚は外戚で皇帝の親政をやめさせようとする。また、皇帝に寄生する、とも言える宦官は、従来の官僚機構を崩し、官僚から強い反発を招いた。このような政治抗争の果てに、後漢王朝は衰退していくのである。

 

黄巾の乱
 外戚と宦官、清貧を貫く官僚と私腹を肥やす者(外戚や宦官もこれに含まれる)の政治抗争が続くうち、社会の不満、疲弊は頂点に達し、中国全土で反乱がおこった。その中でも最大なのが、「黄巾の乱」と言われる反乱である。この反乱で、ついに後漢王朝は事実上崩壊した。
(***k)
黄巾蜂起図(『三国志ハンドブック』より)
 黄巾の乱の首謀者は、宗教団体の首領・張角(ちょうかく)で、布教活動十余年で数十万の信者を集めた。後漢王朝はこの巨大な勢力を危険視したが、それに気づいた張角は、密かに国家転覆の計画を練る。革命である。しかし、計画が密告により露見、蜂起予定を繰り上げてまでも反乱を起こした。この時、反乱軍は頭に黄色い布を巻いて目印をしていたので、「黄巾の乱」と言われるのである。西暦184年のことであった。
 さて、反乱軍は、数ヶ月にわたって各地を走り回った。その際、彼らはひたすら略奪、破壊を繰り返し、制圧して拠点とするといった手法を取らなかったために、王朝転覆とまではいかなかった。結局、張角は病死、その弟で張角に次ぐ地位の張梁(ちょうりょう)、張宝(ちょうほう)も戦死し、反乱軍の勢いは急速に衰えていった。それでも、黄巾党の残党やその他各地の反乱集団は勢力を保ち、曹操(そうそう)による討伐(192年)でようやく投降したところもある。
 三国志、群雄割拠の時代は、この「黄巾の乱」の鎮圧の副産物(?)であり、そういった意味では、「黄巾の乱」は三国志の舞台を整えた、歴史的に重要な事件なのだろう。

 

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