3、蜀

文責:二宮金次郎(高1)

 

 蜀は221年に劉備が皇帝に即位してから、263年に魏に滅ぼされるまでの王朝である。
 劉備は生まれもって人をひきつける魅力があった。関羽、張飛といった豪傑が、劉備の下に集まり、義によって結ばれた集団を結成したのである。
 劉備は本拠地を持つのに時間が掛かっている。黄巾の乱の討伐に参加して以来、諸侯を渡り歩き、ようやく徐州を手に入れたのも束の間、呂布を迎え入れたため、徐州を乗っ取られてしまう。
 その後も曹操の下に身を寄せたが、曹操に野心を見抜かれ、危うく難を逃れている。群雄の下を放浪し、ようやくここで諸葛亮と出会う。「天下三分の計」を唱える諸葛亮は、孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操を打ち破った。
 最初、蜀に目をつけたのは劉璋の父・劉焉だった。劉焉の後を継いだ劉璋は凡庸な君主だったため、張松らは劉備を蜀の君主にしようと画策し、劉備を益州に迎え入れた。益州平定は意外にてこずり、軍師のほう統が戦死するなど苦戦のうえ、ついに成都を包囲し、劉璋を降伏させた。
 劉備政権で、ホウ統を失ったのは痛手で、諸葛亮は荊州の守りを関羽に任せることに成り、蜀の政務に忙殺される。219年に漢中を平定し、劉備は漢中王となったが、一方で孫権に荊州を襲撃されて、関羽は殺害され、荊州を失ってしまう。2年後、劉備は皇帝に即位するが、関羽の弔い合戦とばかりに呉へ侵攻し、大敗北を喫した。223年、劉備は病の床につき、諸葛亮に劉禅の補佐をたくす。諸葛亮は孫権と友好関係を深める一方で、南蛮を征伐して異民族を心服させ、「出師の表」を奉って、5度にわたる北伐を行った。だが、魏との国力の決定的な違いはいかんともし難く、234年、諸葛亮は五丈原にて陣没した。

 

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