2、呉

文責:鵬挙(中3)

 

 江南の肥沃な土地に恵まれ地味ながら発展を遂げた呉。積極的な軍事侵攻はしなかったものの、逆を言えば魏と蜀と巧みに和を結ぶ外交術が光る。ここではその呉について述べる。
 呉は、親子三代で築いた国である。元をたどれば、呉国の祖、孫堅に行き着く。彼は孫子の末裔とされ、17歳の時、海賊退治で一躍有名になった。そして政府に仕官し、反董卓連合軍にも参加するが、192年、劉表と交戦中にあっけなく戦死した。当時は袁術の配下にすぎず、孫堅死後は領地、兵士とも袁術のものとなってしまう。それでも戦場で数々の手柄を立て、孫氏の名は広まってゆく。
 孫堅のあとを継いだのが孫策である。孫策は実質の呉国創業者とも言われ、最初は袁術の配下だったが、後に独立して江東に地盤を築き上げ、勢力を拡大していく。孫策は人の意見をよく取り上げたので、この時にも優秀な配下が多数集まった。だが孫策も、200年、許貢のもとにいた食客の手にかかり26歳でなくなる。
 そのあとを継いだのが孫堅の子であり孫策の弟の孫権である。孫権は19歳で呉の主となった。君主が変わるときは配下が離れて行くものだが、孫権は兄の臣下を引き継いだ。208年、劉備と連合し曹操の天下統一の野望を赤壁に手打ち砕く。後に劉備とは荊州の領有をめぐって対立するが、219年、関羽を倒し、荊州を平定する。この間は、曹操と和を結んでいる。そして、221年、劉備が侵攻を開始すると、陸遜を派遣してこれを破るが、翌年には和を結ぶ柔軟さを見せている。そして229年、孫権は帝位につき、三国鼎立が始まった・・・。
 しかし、孫権の後継者を巡って問題が起きる。これは太子の孫登が、孫権の在位中に死んでしまったため、太子候補をめぐって、孫和、孫覇派に呉が割れてしまった問題である。250年。孫権は孫和、孫覇両方を太子からはずし、孫亮を立てることで決着をつける。2年後に孫権は、10歳の孫亮を残して亡くなってしまう。
 その後、孫亮の代に実権を握った諸葛恪が、孫峻に殺害され、258年、孫峻のあとに実権を握った孫?を、孫亮が殺そうとして失敗、孫?は孫亮を廃して、兄の孫休を擁立した。孫休は孫?のクーデターを知り、彼を処刑した。264年、孫休が死去すると、ちょうど蜀の滅亡と重なったため、この機会に立派な君主を立て盛り返そうと試みた。このとき推されたのが、先に出てきた孫和の子、孫晧である。ところが彼はかなりの粗暴さと傲慢さを持っており、人の目をはいだり、皮を剥いだりするという行為を何度となく行った。また、人民を過酷な労働に借り出したため、民の心は離れていった。280年、晋が呉に侵攻すると、かつて赤壁で曹操を破った水軍の強さは跡形もなくなり、孫晧はあっけなく晋に降伏、三国時代は、晋の統一という形で幕を閉じるのであった。

 

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