1、魏

文責:孟起(中2)

 

 三国時代でもっとも強大な国が魏である。魏の領土は中元の3分の2を占め、人口、兵力ともに圧倒的優勢にあった。『正史』では、220年に後漢王朝から帝位を譲り受けて、265年司馬炎に禅譲するまで五代46年間にわたる王朝である。曹操は董卓や袁紹などと同じ、群雄の1人だった。
 189年曹操は董卓討伐の兵を挙げるが、このとき曹仁や夏侯惇などの曹操の一族らが彼につき従った。こういった血縁を擁していたことが曹操の強みであった。191年、早くも荀ケが曹操の傘下に加わった。荀ケは郭嘉、荀攸、鍾ヨウなどの名士を推挙。晋王朝の祖となる司馬懿も荀ケの推挙によるものだった。192年には黄巾賊の残党を降伏させ、自軍に吸収して精兵を選び、「青州兵」と名付けた。この兵が各地で奮戦することになる。
 曹操は袁術、呂布、袁紹らを滅ぼして勢力を拡大する一方で、敵の配下である張遼、張?、賈?といった人材を手に入れる。曹操は旧怨を忘れ、才能のあるものは投降したものを喜んで登用した。彼らもその意気に感じ、曹操のために尽くしたといわれる。
 だが反面、曹操は時として非常な面を見せた。自分の考えに反する者や、利用価値のなくなった者は、容赦なく処分した。あの荀ケでさえも、一説には自殺を命じられたとあり、憂悶のうちに亡くなっている。曹操は決して温情主義者ではなかったのだ。
 後漢王朝は衰退しきっていたが、曹操は帝の重要性を知っていた。196年、献帝が洛陽に帰還すると、曹操は身柄を擁して許へ遷都した。曹操は帝を奉載することで、「大義名分」を得て官軍となり、刃向かう敵はみな朝敵とみなされたのだ。
 また同年には「屯田制」を施行していて、当時の戦争は現地調達によって食糧をまかなっていたが、曹操は計画的に食糧を生産し、貯蔵しようとした。こうして民を募集し、土地や道具を貸し与え、許都の周辺で屯田させたのである。さらに曹操は各地に典農部を置き、典農官に運営、管理させた。こうして遠征の時でも兵糧を輸送する苦労がなくなった。
 曹操は216年に魏王となり、帝位を奪うところまできていたが、最後まで「漢の忠臣」という建て前を通し、帝位には即かなかった。曹操の死後、息子の曹丕が献帝から神譲を受けることで帝位(文帝)に即いたのである。魏滅亡の原因として曹丕が弟の曹植と後継争いをし、皇族の力を弱めたことや、曹丕が司馬懿を重用したことがあげられるが、それは間接的な要因である。それどころか曹丕の政治政策は曹操を上回るほどで、曹丕の時代が最も安定していた。しかし惜しむらしくはわずか6年で病死してしまい、政権が確立しないままに挫折してしまったことにある。曹丕死後、蜀の諸葛亮の侵攻を受け、後を継いだ曹叡(明帝)も34歳の若さで亡くなった。後継の曹芳は、まだわずか8歳で司馬懿と曹爽が後見役となるが、曹爽が司馬懿の戦術にはめられ、249年に司馬懿がクーデターを起こし、曹爽らに無実の罪をきせて3族皆殺しにした。こうして曹一族は衰退し、実権が司馬氏に移る。254年、256年、260年と司馬氏を討伐しようと反乱が起こるが、いずれも鎮圧され、反司馬氏の勢力が一掃される。こうして最後の皇帝曹奐(元帝)が265年、司馬炎の代に神譲によって晋王朝へと政権が移ったのである。

 

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