おまけ(オンライン特別版) その2

登場人物一覧

 

「オンライン特別版」第2弾は、紙面の都合で「鑑 vol.3」への掲載をあきらめざるを得なかった「登場人物一覧」である。三国志の魅力はなんと言っても登場人物にあるのだから。
しかし、原稿の執筆途中で、掲載が無理であることが判明したため、データの所在がばらばらになってしまっていた。何とかかき集めたのだが、情報量に偏りがあることをあらかじめご了承頂きたい。
ただ、蜀だけが全部そろっているので、蜀ファンの方には満足のいく内容となっている?(掲載は順不同)

 

 ・  ・  ・ その他

1、魏の登場人物
許チョ

字は仲康。武勇と力量は人並みはずれていた。曹操が淮南、汝南を攻め落とすと曹操に帰順した。張繍の征討に先陣として参加し功績を上げた。官渡の戦いの際、兵士が反乱を企てているのを見破り、防止した。潼関の戦いの際も親衛隊として活躍。曹操軍の者は、許?をその風貌と強さのギャップから虎痴と呼んだ。曹叡の時代に逝去した。

張遼

字は文遠。丁原、董卓、呂布と君主を変え、曹操に行き着いた。張遼といえば合肥だろう。赤壁のあと孫権が合肥を攻めたので、曹操の命令書どおり張遼は800人で孫権の陣に攻撃をかけた。孫権は包囲した。張遼は突撃して部下を助け、包囲を脱した。その後、孫権は退却したが、張遼の追撃に遭い、命からがら逃げた。221年に病で逝去した。

張コウ

字は儁乂。官渡の戦いで、曹操に帰順する。曹操が馬超らと戦った時、彼の命を助けている。張魯を攻めたときも従軍している。その後、漢中の守備を任されるが、蜀により退却。陳倉を守った。曹叡の代に荊州に駐屯している。蜀が攻めると街亭で馬謖と戦い、山上の陣の水源を絶って、馬謖の軍を散々に打ち破った。諸葛亮がキ山に侵攻すると攻撃、これを打ち破るが、その後、鹵城の蜀軍を攻撃した際、右ひざに流れ矢を受けて戦死した。

ケ艾

字は士載。もとの名を範という。魏末期の将。農政、軍事ともに才能があったが、吃音であったため、最初のうち認められなかった。しかし、司馬懿にその才を見出され数々の戦功を打ち立てた。そして、最後は蜀を滅ぼすにいたる。しかしその功を妬んだ鐘会の讒言により死罪となった。

徐晃

字は公明。もとは楊奉配下だったが、満寵の説得により曹操に帰順する。その後一軍を任され数々の戦いで戦功を上げる。潼関の戦いでは、渡河を成功させ馬超軍を打ち破っている。張魯攻撃にも参加、別軍として活躍している。樊城で関羽と戦ったときは援軍として大勝利を収めた。曹操は七里先まで迎え、宴会を催した。227年、病で逝去した。

鐘会

字は士季。鍾ヨウの末子。幼い頃から才気あふれていた、毋丘倹の反乱の討伐に軍師として参陣した。司馬氏の政権の中でも活躍している。蜀攻略の総大将となるが、剣閣で蜀軍の抵抗に遭い、同じ魏軍のケ艾に先を越されてしまう。成都入りすると大軍を擁し、謀反のうわさをばらまきケ艾を更迭して独立をもくろむが、反乱に遭い殺害された。

2、呉の登場人物
諸葛瑾 子瑜

諸葛亮の兄。徐州の出身だが、江東へ行き、兄弟生き別れになった。孫権に仕え信頼は絶大であり、劉備に対する使者の役目が多かった。220年、魏の軍から領土を守り、229年には陸遜とともに全軍の指揮を任される。241年、68歳で死去した。

3、蜀の登場人物

(劉備・劉禅・諸葛亮・関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超・徐庶・馬謖・魏延・法正・姜維)

劉備

劉備字は玄徳。?郡?県の人で漢の景帝の末裔である。父の劉弘が早く死んでしまったので、母親と二人でむしろを編んで生活していた。15歳のときに、公孫讃らと共に遊学した。

劉備は、黄巾の乱がおこると仲間と共に戦い、その手柄によって安喜の警察署長に任命されたが、督郵(役職名)を殴ってしまい(張飛じゃない)逃亡する羽目に陥る。この後劉備は董卓の討伐などに参加し、少し活躍をする。(あくまで少しである。演技のような活躍はしていない)

劉備は、陳登らの薦めにより徐州を治めることになり、その後何度か呂布と戦う。

呂布の死後、「曹操を暗殺せよ」という勅命を受けた董承らと共に曹操暗殺を計画するが、

露見し、失敗した。(曹操に「今、天下で英雄と言えるのは御身とわしだけだ。」といわれたのもこの頃である。)

その後、曹操と対立し、曹操に敗れて袁紹の下へ逃げた。袁紹と曹操が戦うと、劉備は袁紹軍の武将として一軍を率いるが、袁紹は敗北。袁紹を撃破した後、曹操は再び劉備を攻撃し、敗れた劉備は劉表を頼る。

劉表は劉備を迎え入れたが、彼は常に劉備の反乱を恐れて劉備に対する備えを強めていた。しかしその一方で劉備に于禁、夏侯惇の軍を防がせた。(このころ、諸葛亮が劉備に仕える)

劉表の死後、劉備は長坂の戦いなどを経て呉に落ち延び、孫権と手を結んで、周瑜らと共に曹操軍を打ち破った(赤壁の戦い)。

赤壁の戦いの後、劉備は南荊州の4郡を平定し、さらには蜀の奪還にも成功。曹操のスキをついて漢中も奪回し、219年には漢中王を、221年には蜀漢皇帝を名乗るが、夷陵で陸遜に大敗し、失意のうちに永安で死亡する。

劉禅

字は公嗣。劉備の息子。蜀の二代皇帝。劉備の遺言により、諸葛亮を父のように仰ぎ「相父」と呼んでいた。諸葛亮の生前も死後も(諸葛亮が推薦した)忠臣の発言をなかなか取り入れず、佞臣の黄皓に踊らされ姜維の北伐を援護できず、国を滅ぼしてしまう。

諸葛亮

字は孔明。中国きっての名軍師。その凄まじい才能から「臥龍(寝ている龍)」と称された。若い頃は農耕に携わり自給自足の生活を送っていた。身長は八尺もあり、常に自分のことを管仲(春秋時代・斉の桓公の宰相)や楽毅(戦国時代・燕の名将)にたとえていた。当時の人でこれを認める者はいなかったが、崔州平や徐庶元直などの諸葛亮の数少ない友人達は「真にその通りだ。」と認めていた。

劉備が新野に駐屯していた頃、彼に仕えていた徐庶が諸葛亮を紹介した。劉備は諸葛亮にたいそう興味を持ち、徐庶の勧め通り自ら諸葛亮を訪問しおよそ三度の訪問の末やっと会えた。そこで劉備は人払いをし、天下の情勢について二人で語り合うとともに彼に自分の幕下に入ってくれるように説得した。諸葛亮が劉備の参謀になってからは、劉備は彼と寝食を共にし、日に日に親交を深めていった。これに関して関羽や張飛は不機嫌であったが、劉備が「私が孔明を必要とするのは、魚が水を必要とするようなものだ。諸君らは二度と文句を言わないで欲しい。」と言ったため、彼らはもう何も言わなくなった。

劉備が身を寄せていた劉表が病死すると、曹操の大軍が南方征伐に乗り出した。諸葛亮は荊州を取るべきだと何度も進言したが、劉備は「親族でもあり恩もある劉表殿に申し訳ない。」といって聞き入れなかった。仕方なく劉備軍は親族・劉埼のいる夏口まで撤退した。

劉備が夏口まで来ると、曹操に対抗すべく孫権と同盟を結ぶため、諸葛亮は単身呉に乗り込んだ。孫権は柴桑に駐屯して曹操軍の情勢を伺っており、曹操に属するか戦うか迷っていた。諸葛亮はその孫権を説得し、物事の利害を説いて孫権を味方につけた。孫権もこれにはたいそう喜び、周瑜・魯粛・程普ら水軍三万を派遣し劉備と力を合わせ、曹操を赤壁において破った。

劉備が永安で重態になると諸葛亮に向かってこういった。「君の才能は曹丕(曹操の息子・魏の初代皇帝)の十倍はある。もし跡継ぎが補佐するに足る人物ならばこれを補佐してやってくれ。しかし、そうでないならば、君が国を奪え。」諸葛亮は結局劉備の子・劉禅を二代皇帝として立て、これをよく補佐した。 

その後、諸葛亮は、叛乱を起こした益州南部や南蛮の征伐に向かった。南蛮王・孟獲を心服させ、南蛮の地をことごとく平定させると、軍需物資が大量に出るようになり国はおおいに豊かになった。

そこで諸葛亮は軍を調達し、魏との決戦・北伐を開始した。そこで好敵手・司馬懿と幾度と無くなく対戦したが、決定的な勝利を得られないまま時間ばかりがすぎ、234年、諸葛亮は病によってこの世を去った。

関羽

字は雲長(元々は長生)。その頬髭のすばらしさから「美髭公」と呼ばれた。劉備が旗揚げした時、張飛と共に彼の元に駆けつけ彼の護衛官となった。劉備は彼ら二人に兄弟の様な恩愛をかけ、全幅の信頼をおいた(演義では義兄弟の契りを結んだことになっているが正史ではそのような記述はない)。関羽はその人並みはずれた武勇で常に劉備軍の先陣を任された。また彼は教養もあり「春秋左氏伝」にも精通していたため、若き日の劉備の相談役もよく努めた。

曹操が東方征伐に向った際、関羽を捕らえ自分の配下にしようと様々なもてなしをした。しかし関羽は劉備への忠節を忘れず、曹操軍が苦戦していた顔良・文醜(共に袁紹配下の猛将)を一刀のもとに切り捨てて曹操の恩に報いた後、劉備のもとに戻っていった。曹操も関羽の潔い態度に感心したという。

劉備が蜀を治めるようになると、関羽はその武勇とそれまでの功績から五虎大将軍の筆頭という官爵を与えられた。その後も蜀の前線基地であった荊州をよく守ったが、魏呉同盟軍の侵攻や配下の裏切りもあって荊州を失い、呉に捕らえられ処刑された。

張飛

字は益徳。若い頃関羽と共に劉備に仕え、彼ら二人とは兄弟同然に付き合った。短期で喧嘩っ早い性格だったので軍内でも度々問題をおこしていた。また酒癖も悪かったのでそのせいで国を失ったこともあった。しかしその武勇はあの関羽をも越え、「万人の敵に値する」といわれた。

劉備が身を寄せていた劉表が病死すると、曹操は荊州制圧のための軍を出した。その報を受けた劉備は軍をまとめて江南に向かって逃げ出した。しかし曹操軍の進軍は早く、暫くしたら当陽の長阪で追い付かれた。劉備はそれを聞き妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を与え背後を守らせた。張飛は橋の上に立ち曹操軍に向かって、「我が張益徳である。来るがいい。死を賭して戦おうぞ。」と一喝した。皆張飛を恐れ思い切って近づこうとせず、そのため劉備は助かった。

劉備が蜀に入ると張飛は五虎大将軍に任ぜられた。その後も彼の武勇は衰えることは無く、漢中においては魏の名将・張?率いる軍を撃破するなど数々の手柄を立てた。しかし関羽の弔い合戦の直前になって日ごろの短気さが災いし、部下の裏切りによって殺害された。

趙雲

字は子竜。もと公孫讃の客将であったが、共に行動した劉備の人間性や魅力に惹かれ、後に仕えることになる。趙雲は身の丈が八尺(約185cm)あり、姿や顔つきが際立って立派だった。彼は、与えられた任務を常に完璧に遂行し何かあれば臨機応変に対処することの出来る人物だったので、劉備も諸葛亮も彼を厚く信頼し重用した。槍の腕もさることながら兵の采配・統率にも長けていたので、他国の将たちにも「蜀軍きっての名将」といわれ恐れられた。

当陽の長阪において劉備軍が敗北を喫した時、「趙雲は北方に去った」と言う者がいた。劉備はその者を手戟で打ち、「子竜はわしを棄てたりしない。」といった。その言葉通り、趙雲は劉備の子供・劉禅を抱き百万の曹操軍の中をただ一騎で駆け抜け劉備の元に戻ってきた。

また定軍山においては、曹操軍の兵糧の焼き討ちに向かった黄忠が約束の刻限までに帰ってこなかったので、わずか数十騎で敵陣に突撃して黄忠を助け出したり、二十万の敵軍の前にわずか一騎で立ちふさがり、敵軍が動揺している間に奇襲をかけてこれを撃破したりと大変な戦果を挙げた。その活躍ぶりは劉備が思わず「子竜の身体は全て肝っ玉だ」ともらす程であった。

黄忠

黄忠は字を漢升といって、南陽郡の生まれであった。彼は老いてますます盛んな人が代名詞となるにふさわしい人で、また蜀の人であった。曹操が赤壁の戦いで敗れ、劉備が荊州南部を平定。その折には任を受け劉璋を攻めるなどして大きな功績を挙げた。彼は常に先頭を切って戦場を駆け抜け、果敢に敵を責め立てる様子まさに三軍の筆頭であったといえる。

馬超

馬超は字を孟起といって、扶風郡茂陵県の生まれであった。彼は馬騰の息子であり、数々の戦績を上げ曹操もが恐れた猛将であったという。諸葛亮と関羽と馬超と逸話は諸葛亮が馬超と関羽を比べ負けず嫌いの関羽のプライドをくすぐったことで有名である。後に彼は劉備によって迎えられ、221年には驃騎将軍に昇進するが、翌年に47歳でこの世を去る。

徐庶

徐庶は字を元直といって、潁川郡の生まれであった。元は徐福という名であったが人に請われ敵を討ったことにより刑吏に追われる身になってしまい、逃亡生活のすえに徐庶と改名した。荊州で遊学の際に諸葛亮と親交を結び、ともに遊学する。優秀な人材を求める劉備に諸葛亮を勧めたのも徐庶であった。その後曹操が荊州に攻め込んだ際母親を人質に取られ、曹操の元と赴くこととなりそのままそこで病死した。

馬謖

馬謖は字を幼常といって、襄陽郡宜城県の生まれであった。劉備が荊州にいた頃に兄の馬良とともに劉備の配下になり入蜀する。劉備の臨終の直前、劉備は諸葛亮に口が先行して実行が伴わないから重要な仕事を馬謖に任せては行けないと忠告している。実際馬謖は街亭の戦いで諸葛亮の命令に従わず、惨敗した。その後命令に背いた罪として軍令に従い、諸葛亮は馬謖を斬り、また馬謖も潔く死んでいる。これが有名な「泣いて馬謖を斬る」である。

魏延

魏延は字を文長といって、義陽郡の生まれであった。彼は劉備が漢中王に即したときに、張飛が選ばれると予想された漢中太守に選ばれており、劉備から信任された武将であったといえる。しかし、諸葛亮の病死直前の命令を無視し、楊儀と加勢した董允らと戦うこととなった。魏延の部下達も非が魏延にあることを知っていたためことごとく大敗。魏延自身も漢中に出奔するところを馬岱に追撃され斬り殺されてしまう。

法正

法正は字を孝直といって、扶風郡?県の生まれであった。当初彼は孟達とともに劉璋の配下になっているが、劉璋からは品行が悪いと評価され重く用いられることはなかった。やがて劉備が蜀の君主になると法正は蜀都太守・揚武将軍に任じられるが彼は自分に怨みのあるものなどを勝手に殺害する。しかし彼自身の功績によって法正の権限は略奪されなかった。219年に劉備が漢中を平定した後、曹操が今回の敗戦が法正の献策と知ると「劉備にこんな策は考えられないと」つぶやいたと言われている。その後法正は45歳でなくなった。

姜維

姜維は字を伯約といって、天水郡冀県の生まれであった。当初姜維は魏の天水太守に仕えたが、蜀軍が押し寄せてきたとき、馬遵は姜維が寝返っていると思い、彼を置いて逃亡。姜維も逃亡するが、どこへ行っても追い返され、仕方なく諸葛亮に投降することとなった。諸葛亮は彼の才能を高く評価し、姜維を重要な役柄に抜擢した。その後諸葛亮がなくなるまでに彼は何度も北伐に参加しているが、どの様に活躍したかは不明である。また、司馬懿の追撃をやめさせた、いわゆる「死せる孔明生ける仲達を走らす」の策は諸葛亮最後の策と言われているが、実は姜維の策だったのかもしれない。諸葛亮の死後も、姜維は蜀の武将として戦う。

その後蜀が魏の侵攻を受けたとき、彼は劉禅に対し守りを固めるように進言している。しかし、劉禅はこれを聞き入れなかったため、蜀は魏の快進撃を受けることとなる。そして、そのまま蜀は滅亡。姜維も劉禅の勅令により戦っていた鐘会に降伏する。

鐘会は彼を厚く歓迎した。だが、この時彼は一世一代の大勝負に出ようとしていた。それは、鐘会をそそのかしケ艾に罪を着せることによって護送車で洛陽に召還させた後、魏の諸将を誅殺し蜀の復興をたくらんだのである。

これに対し鐘会は成都に到着すると、反旗を翻し、姜維に5万の兵を与えて魏への先鋒をつとめさせようとした。だが、姜維はこのことに同調しない魏の兵によって鐘会とともに殺されてしまう。

4、その他の登場人物

(張角・司馬炎・司馬懿・公孫讚・馬騰・張魯・劉璋・劉表・袁術・袁紹・董卓・呂布)

張角

「太平道」と呼ばれる宗教集団の領袖。当時相次ぐ天災で苦境の底にあった人民の多くが、これに心服した。その後、大賢良師と名乗り、布教活動を行った。その結果信者は数十万を数えた。そして184年、張角は黄巾の乱を起こす。しかし、反乱は直前に発覚。同年に張角は病死。数ヶ月で鎮圧されたが、残党は以後数十年にわたり各地で戦いを起こす。『演義』では、山中で、南華老仙から「太平要衝」を授かり、太平道の教祖となる。

司馬炎 安世

晋王朝の初代皇帝。すでに魏王朝に力はなく、司馬氏の地位は揺るぎないものになっていた。264年に司馬炎は晋王朝を建国した。269年、呉討伐の兵を挙げる。呉も陸抗(陸遜の子)が長江一帯を防備し、呉と10年もにらみ合う。279年、晋の大軍は6方面から呉に侵攻し、翌年は建業を急襲し呉帝の遜酷は降伏。しかし、天下統一後、軍縮を行った後は、早くも前途に衰退の兆しが見え始めてくる。司馬炎は290年、55歳で亡くなった。

司馬懿 仲達

司馬氏は河内郡の名族。201年、曹操は司馬懿を幕下に招こうとするが、彼は辞退。208年、曹操は再び司馬懿を招き、司馬懿は重い腰を上げた。司馬懿は、219年に関羽に樊城を包囲されると戦わずに関羽を呉と戦わせ、見事樊城を救った。234年、諸葛亮が五丈原に布陣。決戦に持ち込みたい諸葛亮は司馬懿を挑発するが、諸葛亮が陣没して魏軍の勝利。『演義』では、司馬懿が諸葛亮の木像に驚き、「まだ生きていたのか」とあわてて逃げるシーンが有名。明帝が危篤状態に陥ると、曹爽とともに後を託される。やがて司馬懿は病と偽って政界から遠さがり、曹爽は、油断した。249年、司馬懿はついにクーデターを決行し、都の武器庫などの要所を占拠。こうして司馬懿は丞相となる。だが、対呉方面の司令官の挙兵計画を知った司馬懿は自ら軍を率いて討伐に向かい、反乱は防いだものの、無理がたたり、251年、73歳で亡くなった。

公孫サン 伯珪

後漢の群雄の一人。鮮卑(異民族)の平定に活躍した。一時は袁紹を脅かしたが、界橋で袁紹に敗れると、公孫サンは袁紹に追い詰められる。198年袁紹の大攻勢に篭城戦で対抗。しかし、策を逆用され大敗。再び篭城したが敗北を決意し自害。『演義』では劉備の兄弟子として、善人に描かれているが、史実では悪名高く、戦闘力も抜群であったようだ。

馬騰 寿成

馬超の父で、前漢の名将、馬援の子孫。やがて独立勢力として基礎を作ると、2回朝廷に反逆したが、どちらも失敗。208年、都に召されると移住し、隠遁生活を送る。しかし、211年馬超が反乱を起こし、馬超の罪に連座して、三族皆殺しにされた。『演義』では立場が反対で、漢王朝に忠義を尽くす将として描かれている。

張魯 公祺

祖父の張陵の代に起こった「五斗米(ごとべい)道(米賊)」の継承者。劉焉が亡くなると独立し、後継の劉璋には従わなかった。215年、曹操の討伐軍が迫ると、張魯は降伏しようとしたが、弟の張衛は承知せず、陽平関を破られ、再び降伏を考えるが、閻ボが「今降伏すれば評価は小さい」と言われ、巴中に逃れた。その際、宝物財貨の入った蔵を「国家のもの」として焼き払わずして去ったため、曹操は彼を高く評価した。

劉璋 李玉

益州牧・劉焉の子。最初は献帝につき従ったが、父の位を継ぐことになる。曹操と友好を深め、劉備を張魯に当たらせようとして劉備を援助。し かし張松が劉備に蜀を譲ろうとしていることが発覚すると、劉備と争うことになる。戦いは2年に及んだが、214年に成都が包囲されるとついに降伏。荊州に移り住んだ。のち、荊州が孫権に支配されると、益州牧に任じられて亡くなった。『演義』でも凡庸な君主として描かれている。

劉表 景升

後漢末の群雄の一人。霊帝の没後、荊州の刺史になる。劉表が荊州に赴任したばかりのころ、江南地方は無法地帯と化していたが、あっという間に荊州を平定する。その後も戦乱期にありながら強大な力を持ち、平穏を保った。208年曹操が自ら荊州討伐に乗り出したが、劉表は曹操が荊州に至る前に世を去っていた。

袁術 公路

袁紹の従弟。董卓討伐連合軍に加わったが、董卓の死後は袁紹と対立する。袁術は公孫サン、孫堅と結び、袁紹は劉表、曹操と結んで争った。197年袁術は皇帝を名乗った。しかし、孫策に背後を衝かれ呂布、曹操に敗れた。そこで皇帝の称号を袁紹に送り、身を寄せようとしたが、途中で亡くなった。

袁紹 本初

後漢末の群雄の一人で4代続いて三公の位にあった名族の出身。190年反董卓連合軍の盟主となるが、結局董卓と雌雄を決せぬまま連合軍は崩壊した。199年公孫サンを滅ぼして、その領土を併合した。200年、官渡の戦いがはじまる。圧倒的優位に立ちながら苦戦するが、曹操を後一歩まで追い詰める。しかし、部下のいさめを聞かず、鳥巣の基地を夜襲され、壊滅的な敗北を受ける。202年、袁紹は発病し亡くなった。

董卓 仲潁

若い頃から仁侠の従で、羌族の顔役達と親交を結ぶ。親分肌で人心掌握に長けていたようだった。董卓は腕力も抜群で北方異民族の征伐でも数々の成果を上げ、中朗将となる。黄巾族に敗北して免官となるが、韓遂らが涼州で反乱を起こすと復職して鎮圧にあたっている。そのころ、何進が宦官の撲滅を図るため、全国の諸侯を招集したが、董卓が洛陽に着く前に何進は誅殺された。董卓は宦官に連れ去られた少帝と陳留王を保護し洛陽に入った。この時軍勢は約3000だったが、計略により何進の軍を併合し、さらに呂布を配下に加えた。大尉になると少帝を廃して陳留王を献帝として立てた。董卓の暴虐ぶりはひどくなり、190年、各地の諸侯が袁紹を盟主に反董卓の兵を挙げる。董卓は長安遷都を強行し、反董卓連合は空中分解したが、董卓の命は長く続かない。呂布が董卓の侍女と密通していて、事が発覚するのを恐れて司徒の王允の董卓殺害計画により、呂布に殺されてしまった。董卓の死体は市場にさらされ、へそに火をつけると幾日も燃え続けたという。

呂布 奉先

最初は井州刺史・丁原に仕えた。霊帝が崩御すると、丁原は洛陽へ上ったが、董卓が呂布を誘い丁原を殺させ、呂布と父子の契りを結ぶ。呂布は親しい王允に、董卓の怒りにふれ、殺されかけた話をすると、王允は董卓暗殺計画を持ち出し、決意した呂布は董卓を殺す。しかし董卓軍残討の李カク、郭らの大軍に敗れ、呂布は袁術のもとへ逃亡。しかし受け入られず袁紹のもとへ、さらに張陽のもとに逃亡した。194年、曹操が陶謙討伐に行くと、陳宮、張?が呂布を引き入れ反乱するが帰還した曹操に敗れ劉備のもとへ逃亡。しかし、呂布は劉備を裏切り下?を奪取。198年、呂布は袁術と結んで曹操と敵対した。曹操は自ら呂布を攻め、「下?の戦い」が起こる。籠城する呂布軍に曹操軍は水攻めを仕掛け、呂布軍は降伏者が続出。呂布も生け捕られてしまう。呂布は曹操に命乞いをするが、劉備の進言もあって曹操は呂布を処刑した。