後漢の沿革 |
漢は前202年高祖劉邦が建国した。一般には前漢(前202〜8)後漢(25〜220)と区別され短期政権であるが新(8〜23)が存在した。前漢は西の長安を都にし、後漢は東の洛陽を都としたため、西漢、東漢と呼ばれることもある。前漢は15代約200年にわたって続いたが、王莽(おうもう)が幼い皇帝を擁立し政治実権を握ると8年には皇帝の位を簒奪し晋王朝を立てた。だが政治が儒教に基づいていて理想的だが、現実性に欠けていたので、各地で「漢朝復興」の挙兵などでの反乱が相次いだ。23年王莽は都に侵入した反乱軍に殺された。こういった反乱勢力の中から漢の一族であった劉秀が台頭し、25年に光武帝として即位した。そして都を洛陽に移し再び天下統一した。これが後漢王朝の始まりである。 |
後漢王朝は三代目まで治世が続いたが四代目和帝が十歳で即位すると外戚の専横が目立ち皇帝の権威は墜落した。前皇帝章帝の皇后であった竇太后が政務を補佐したが、兄の竇憲が大将軍となり一族もろとも権威をふるったので和帝は帝位を簒奪されることを恐れてそこで側近の宦官に相談し92年に竇憲一派を一掃したのである。歴史は繰り返す。梁氏から8代順帝の皇后が出ると皇后の父が大将軍となった。父の代わりに兄が大将軍になると皇帝の廃立、擁立さえも思うままになった。9代沖帝はわずか2歳、10代皇帝は8歳、しかも質帝は皇后の兄を役職の抜胡に引っかけ「跋 将軍」と呼んだ為、憎まれ毒殺された。続いて桓帝が即位(15歳)したが、梁氏は3代20年にわたり政権を専横したのである。桓帝は梁氏一族の排斥を企て宦官5名と実行に移す。159年梁氏の屋敷を取り囲み自殺に追い込んだ。この後この5人も「盗賊と変わらないほどであったと記されている。」 若者は学業を終えると仕官することになっていたが、官職の任免が宦官によって牛耳られていたため、コネや賄賂がない限り仕官できなくなっていた。清廉潔白な官僚達はこうした勢力に結束し反抗した。これを「清流派」と呼び、対して宦官達を「濁流派」と呼んだ。こうして清濁の抗争が全国的に広がろうとしていたとき、第一次「党錮の禁」が起こる。166年宦官達は「清流派」の中心李膺らが、若者を扇動し私党を結成して政府を誹謗しているとして、桓帝をそそのかし、党人200人余名を逮捕した。だが裁判にかけると宦官の悪事がばれるので、「清流派」を故郷に帰し終身禁錮とし、官僚の道を閉ざした。大将軍の竇武が陳蕃とはかり宦官勢力を一掃しようとした事前にもれてしまい翌年第二党錮の禁が起こり、李膺ら200余名が殺され新たに700余名禁錮された。この2度にわたる制圧で宦官の張譲・趙忠ら中常侍達に専横された。中常侍は12人いたが一括して「十常侍」と呼ばれた。 |
184年、張角が黄巾の乱を起こすと各地に禁錮となっている者が反乱軍と結託するのを恐れ、禁錮が解除され清流派人々が討伐に向かった。首謀者である張角が急死したためすぐ鎮圧された。 |
189年霊帝が死去すると少帝が即位し異母兄の何進が実権を握った。何進は袁紹らと謀り、宦官を撲滅しようとした。が、宦官が先手を打ち何進を誅殺したため、袁紹らは宮廷に攻め入り宦官2000余人を殺害。この時少帝と陳留王は宦官に連れ去られたが、何進の呼びかけに応じた董卓が2人の身元保護し、洛陽に入って敗残兵を吸収し実権を握った。董卓は少帝を廃して弘農王とし、陳留王を献帝として即位させた。そして弘農王と何皇后を殺害し、漢王朝は事実上崩壊した。 |