7、赤壁の戦い・三国の収支決算

 

正史三国志の記述では、魏軍・連合軍が具体的に損耗した兵士数については言明されていないが、ここでは赤壁の戦いはそれぞれの陣営にどう影響したのかについて考察してみたい。
演義の記述によると、開戦前の魏の兵力は約二十万(八十万と号した)、対する孫権が動員した兵が三万、劉備軍が二万とされている。単純計算で四倍もの開きがあるわけだが、実際のところこの兵力差をどのようにして埋めたのだろうか。

日本戦国時代の桶狭間の戦いでは、織田信長が五倍の兵力差を奇襲により覆したとされているから、理論上は赤壁で連合軍が勝利を収めたのもあながちあり得ない話ではないといえる。ちなみに米国の軍事マニュアルでは、最も条件が整ったときに逆転可能な兵力パリティは1:5であるとされている。

では正史の記述をもとに、考え得る連合軍の勝因を列挙してみよう。

  1. 魏軍は大軍であったが、戦場は主に水上であり、水戦に長けていた呉軍に利があった。
  2. 呉の火攻と風向き(江南の季節風を呉軍は熟知しており、それを利用したとも考えられる)がマッチし、密集していた魏の船団に損害を与えた。
  3. @に関連するが、河を遡上する魏軍は陸戦でのように兵を展開することができず、実際の兵力差ほどの圧力を呉軍に与えられなかった(換言すれば、地形効果によりランチェスターの戦力二乗の法則が働かなかった)。
  4. 疫病の流行
それぞれについての詳しい説明は正史と演義の相違点について述べた項を参照して頂きたいのだが、とりあえず限られた史料から挙げられる勝因はこのくらいである。だが勝ち負けについてははっきりしているので、戦いが各陣営にどう影響したかについては述べることができる。

まず、一番影響が大きかったと思われるのが、劉備陣営。滅亡の危地を免れただけでなく、この戦いによって魏の攻勢が弱まった隙に、一気に地盤を固めることに成功している。諸葛亮の提唱した天下三分の計の実現に大きく前進したのである。また赤壁での兵力の損耗も少なかったと考えられ、呉との同盟を最大限に生かした合戦であったと言える。

対して孫権陣営は、赤壁での戦いぶりに対して、その後拡張した領土が少ない。その原因は二点ある。まず、戦いの二年後に軍事の中心であった周瑜が死亡してしまったこと。これにより、赤壁での勝利の余勢を駆って荊州・蜀を狙おうとする天下二分の計が頓挫したのみならず、周瑜の死後、呉の運営が親劉備派の魯粛が任されたことにより、劉備の入蜀を許してしまったのである。

そしてもう一つの原因は、赤壁の戦いの後に江陵を落としたことによって、魏の攻撃を一手の引き受けることになってしまったことである。呉にとって、赤壁での勝利は単に滅亡を免れたという以上のものをもたず、結果的に最も損な立場となっているのである。

魏にとっては、敗戦はそれほど影響の大きいものではなかった。この後の軍の建て直しにそれほど時間はかかっておらず、疫病の流行による撤退という意味合いが強かったのではないだろうか。ただ、この戦いを境に曹操はそれまでの一気に天下統一するという方針を変えており、その点では意義深いものと言える。

つまり、赤壁の戦いは劉備が孫権と組んで魏をうち破り、その結果天下三分の計が実現し、また「朝敵」である魏を撃破した事により蜀びいきの演義においても格好の名場面となり、多少の誇張を含みつつ後世まで語り継がれた合戦であった、と結論づけることができる。

なぜ『正史』の中で違いがあるのか?

いままで見てきたように、『正史』といっても『魏書』・『呉書』・『蜀書』の間には微妙な違いがある。ではどうして、このような違いが出てしまったのだろうか。

これは渡辺精一氏が『諸葛孔明(しょかつこうめい)-影の旋律―』で述べているように、『正史』の作者・陳寿(ちんじゅ)は、いろいろな記述をいろいろな人の伝記に振り分けておいて、みんなあわせると一つの事実が浮かび上がってくるような書き方をしている。三国志には、実際そういう場面があるのだが、この場合はそうでもなさそうである。というのは呉と魏の間で赤壁の戦いに関する見方がなかなか並立しないものなのである。
この違いはどうして出たかといえば、これは成立事情に関わってくることがあげられるだろう。まず陳寿は『呉書』を書く際に、もともと呉で編纂されていた歴史書を大いに参考にしているのである。これは呉が現存している時代に編纂された書物である。それが大きく影響を与えているのである。また、魏の方には、歴史を編纂する役人がいたので陳寿はそちらの方を使ったと思われるのである。というのは、陳寿がつかえた晋を正統とする以上、その前に政権を握っていて晋に禅譲してくれた魏を悪く言うことはできないからである。そのため、『呉書』は呉で編纂されていた史料、『魏書』は魏で編纂されていた史料がつかわれて、『正史』が完成した可能性が高い。
実際、そのことについて裴松之(はいしょうし)は蜀と呉についての話ではあるが、以下のように書いている。

「(孫権を説得したのは魯粛(ろしゅく)か諸葛亮(しょかつりょう)かをめぐって)このように書き方に矛盾があるのは二つの国の史官たちがそれぞれが伝聞したところを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して、それぞれが手柄を独り占めしようとしているかのごとくである。しかるにこの『呉書』と『蜀書』とは、同一人の手になるものでありながら、こんな風に食い違っている。歴史記述の根本に違反するものである。」

つまりここで裴松之はさじをなげてしまっているわけである。史官が自分の国の歴史を都合よく書くのはよくあることである。陳寿はこのときに、現地の記録をそのままつかったために、記録の間に微妙な違いが出てしまったのではないだろうか。