6、それぞれの立場からの評価

 

正史の記述
魏書・武帝紀

「公は赤壁(せきへき)に到着し、劉備(りゅうび)と戦ったが負け戦となった。そのとき疫病が大流行し、官吏史卒の多数が死んだ。そこで軍を引き上げて帰還した。劉備はかくて荊州(けいしゅう)管下の江南(こうなん)の諸郡を支配することとなった」

注)上の文の「負け戦となった」という記述は、原文では「不利」となっており、ある評論家は、これは曹操自身が赤壁で敗北したのだとは思っていなかったと云うことを陳寿が言いたかったのだと解釈し、そのような観点から、「無限の含蓄がある」と述べている。

呉書・孫権伝

「劉備と共同して軍を進めると、赤壁で敵と遭遇し、曹公の軍を徹底的に打ち破った。曹公は残った船に火をつけ、兵を纏めて撤退した。士卒たちは飢えて病気にかかり、その大半が死亡した」

蜀書・先主伝

「孫権は周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)ら水軍数万を送って、先主と力を合わせ、曹公と赤壁において戦い、大いにこれを打ち破って、その軍船を燃やした。先主と呉軍は水陸並行して進み、追撃して南郡(なんぐん)に到着した。このときまた流行病が広がり北軍(曹操軍)に多数の死傷者が出たため、曹公は撤退して(許に)帰った」

蜀書・諸葛亮伝

「曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引き上げて?に帰った。先主はかくて江南(こうなん)の地を手中におさめ、諸葛亮を軍師中郎将(ぐんしちゅうろうしょう)にして、零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)・長沙(ちょうさ)の三郡を治めさせ、その賦税(ふぜい)を調達して、軍事費に当てた」