5、追撃戦

 

演義の記述
水上で敗北した曹操(そうそう)は、陸路をつたって江陵(こうりょう)方面に逃走したが、呉軍(ごぐん)の追撃も急であった。先鋒の甘寧(かんねい)が、投降者の蔡中(さいちゅう)を案内にして敵地深く入り込んだ。甘寧は直ちに蔡中を斬り捨て、火を放つ。彼に続いて、呂蒙(りょもう)・潘璋(はんしょう)・董襲(とうしゅう)らも押し寄せる。

曹操は徐晃(じょこう)・張遼(ちょうりょう)・張?(ちょうこう)らを殿に立てて退却するが、甘寧・呂蒙に凌統(りょうとう)・太史慈(たいしじ)が加わり猛攻をかける。東の合肥(ごうひ)方面には孫権(そんけん)の先鋒である陸遜(りくそん)が陣取っている。曹操軍は西に向って必死に逃走し、配下武将の奮闘もあり何とか呉軍の追撃を振り切った。

しかしその状態も束の間、伏兵となっていた趙雲(ちょううん)が突如襲い掛かる。兵士達は防具をつける暇もなく、慌てふためき敗走する。趙雲は、諸葛亮(しょかつりょう)の命令を守って深追いせず引き上げたため、曹操軍は虎口を脱した。

だが、しばらくの行軍の後休息していると、今度は張飛(ちょうひ)が襲撃する。彼の猛攻は凄まじいものがあったが、許緒(きょちょ)らの奮闘に助けられて脱出する。

曹操軍は孫権・劉備軍の追撃を振り切り、どうにか退却を続けていた。しかし従う兵は1000に満たず、食糧も少なく、また多くは馬を失って徒歩で行軍を続けていた。その状態で曹操が強行軍を命じたため、落伍者・力尽きて倒れる兵が続出した。まさに「惨状」と形容する他はない状態であった。

しばらくして、曹操軍は江陵に近い「華容道(かようどう)」に差し掛かった。この地で曹操軍が休息していたところ、突如伏兵が来襲する。先頭に立つ武将は・・・関羽(かんう)である。

この時は曹操も死を覚悟して「斬り死にの他はない」と言ったが、参謀の程c(たいいく)が、「関羽は義理を知る男だから、昔の好み(徐州(じょしゅう)の攻防戦で劉備が敗走した後、関羽は一時曹操に降っていた)を話せば見逃すに違いない」と進言、曹操は関羽の前に出る。

関羽にはもとより見逃すつもりはない。また諸葛亮も、「絶対に曹操を見逃すな」と厳命している。しかし、曹操は情理を尽くして関羽を説得する。降伏の際の「三約」を全て受け入れたこと・許昌(きょしょう)における厚遇・「五関に六将を斬った」時の寛大な処置・・・

「道を開けろ」

ついに関羽の心は折れた。曹操たちは通り過ぎる。後から追って来た張遼も主君の無事を知ると、関羽(かんう)に感謝しつつ去っていった。

演義の記述は以上である。「正史」の簡略な記述から、これだけの物語が展開するのだから見事なものである。「三国志演義」が広く人気があるのも頷ける。

 

正史の記述
さて次は「正史」の記述を読み、この中から魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)のこの追撃戦の捉え方を考察していこうと思う。

正史においては、この追撃戦はごく簡単にしか述べられていない。大まかに言って、

(1) 曹操(そうそう)は、江陵(こうりょう)・南郡(なんぐん)に曹仁(そうじん)を置いて守らせ、?(ぎょう)に帰還した
(2) 劉備(りゅうび)・周瑜(しゅうゆ)は、共同で曹操軍を追撃し、江陵・南郡まで進撃した
(3) 劉備はこの戦いの後、江南(こうなん)の諸郡を手に入れた

の3種類に分類できる。この記述がある紀伝を列挙してみようと思う。

(1)のみ = 曹操伝 魯粛伝
(1)+(2) = 劉備伝 孫権伝 周瑜伝
(1)+(3) = 諸葛亮伝 関羽伝

正史において「赤壁(せきへき)の敗北は、魏にとって大きな痛手ではない」ということは、曹操伝の記述から明らかである。「退却した」とあるだけで具体的な描写はなく、荊州(けいしゅう)を失ったことについても何の記述もない。魏を正統とする陳寿(ちんじゅ)の意図も有るだろうが、「魏は中原(ちゅうげん)全土(黄河流域(こうがりゅういき)の土地)を領土としているから、荊州を失ったことは些細なことだ」と捉えるのは自然だと思う。
しかし蜀にとっては、赤壁の勝利は後の飛躍に重要な意味を持つ戦いであった。周瑜を総帥とする呉軍が、江陵・南郡を攻略して曹仁を駆逐している間に、劉備軍は荊州南部の4郡を占領する。ここを足がかりに、孫権と同盟を結んで荊州北部を借り、蜀に進撃して劉璋(りゅうしょう)を降伏させ、魏軍を破って漢中(かんちゅう)を占領する。これを見れば、諸葛亮・関羽伝の「劉備はこの戦いの後、江南の諸郡を手に入れた」という、簡単な記述に込められた意図が良く分かると思う。
しかし、追撃戦について劉備(りゅうび)伝には「周瑜(しゅうゆ)と共に曹操(そうそう)軍を追撃した」という記述になっていて、荊州南部(けいしゅうなんぶ)の4郡を占領したことは段落を変えて記述してある。これはなぜであろうか?

劉備は赤壁戦後に荊南(けいなん)の4郡を手に入れるが、これは「赤壁の戦い後、呉軍(ごぐん)と曹仁(そうじん)が荊州北部で戦っている隙に、劉備は荊南を奪い取った」とも解釈できる。「このような印象を劉備の上に与えるのは宜しくない」という意図により、「周瑜と共に曹操軍を追撃した」という記述を先に書き、「劉備は曹操軍を退けるのに貢献した」という印象を与えようとした、このように私は考える。

また呉の孫権・周瑜伝でも、「劉備と共に曹操軍を追撃し、江陵(こうりょう)・南郡(なんぐん)に至った」という記述がある。この2つと劉備伝を見る限りでは、「劉備軍はそれなりの兵力を持ち、孫権軍(そんけんぐん)の共同軍として活躍した」という解釈が出来る。諸葛亮(しょかつりょう)伝の孫権に対する言葉にも、「関羽(かんう)・劉g(りゅうき)の軍勢は共に1万近い」と出てくる。事実なら、4〜5万程度の呉軍にとっては心強い援軍であろう。

しかし陳寿(ちんじゅ)は、劉備に対して高い評価をしているので、呉書の記述といえども完全に信じるのは無理がある。曹操の急迫を受けて敗走した劉備に、それだけの軍備を整えるだけの余裕があったか?もっとも劉gは、劉表(りゅうひょう)の死の前に江夏(こうか)の太守となっているから分からないが・・・

尚魯粛伝(ろしゅくでん)には、「曹操の退却」の記述しかないが、これは「彼が本来文官で、戦闘について記述される立場にない」という理由であって、特別な意図は無いように思う。

赤壁の戦いは、戦術的に見れば「寡勢の劉備・孫権軍が、大軍の曹操軍を撃破した」だけの戦いであろう。しかし戦略的に見れば劉備の意図が明確に浮かび上がってくる。

荊州が曹操の手に落ちたことによって、孫権が曹操軍の進撃の矢面に立つことになった。劉備としては「この両者を咬み合わせ、その間に漁夫の利を得る」戦略が最善のものであろう。事実、赤壁の戦い後、事態は劉備の望んだとおりに推移している。

もっとも呉としても、荊州に曹操がいるよりも他の勢力が支配している状態のほうが望ましいわけで、この点で両者の利害は共通している。そう考えると「諸葛亮の「天下三分の計」と魯粛の「親劉備路線」、この2つは見事なまでに符合している」と言い得ると思う。