4、火攻め、風、疫病について

 

演義の記述
火攻め

周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)は、曹操(そうそう)の大軍を破るには火攻めしかない、と考えていた。そこで、呉の武将・黄蓋(こうがい)は周瑜(しゅうゆ)の命令を受けて、降伏するふりをして、数十艘の小舟を率いて曹操軍に突入し、火を放った。連環(れんかん)の計によって各船がつながっていた曹操の船団は大打撃を受け、曹操は南郡(なんぐん)(地名)へ敗走していった。

連環の計が成功し、曹操を破るための火攻めの準備は全て整った。しかし、この時風はずっと北風であり、これでは長江(ちょうこう)の北岸に布陣している曹操軍に火攻めで打撃を与えることはできない。

そこで、諸葛亮は曹操を破るために、神に祈り方術を行って、東南の風を吹かせた。呉軍はそれに乗じて曹操軍に火攻めを行った。火は東南の風にあおられて勢いを増し、北岸に布陣していた曹操軍は焼き払われてしまった。

疫病

曹操軍の兵の大部分は北国の出身であったため、船に乗るのに慣れていなかった。そのため、長江の流れに船が揺すられて、兵士達は吐き気を催す病にかかり、多くの死者が出た。

 

正史の記述
1、『魏書』

<武帝紀>
武帝とは、魏の太祖武帝・曹操のことである。曹操は(赤壁で)劉備と戦い、敗れた。その後、軍内に疫病が流行したため、曹操は帰還し、劉備は江南を支配するようになった。
注:曹操は軍船を劉備に焼かれ、退却した。その途中で強風が吹き、曹操軍は撤退に苦労した。

<賈?伝>
注:曹操軍内で疫病が大流行し、その上南風が吹いて火勢をあおった。

<郭嘉伝>
曹操は疫病の流行にあい、自ら軍船を焼いた。

『魏書』では、曹操のことは「武帝」と表記されているが、ここでは全て「曹操」に統一した。他の人名も同じである。

武帝紀では、注で火攻めを受けたことに触れている(劉備だけと戦ったように書かれているのはなぜだろう)。火攻めについては賈?伝にも記述があるが、郭嘉伝では、軍内で疫病が流行したため、自ら軍船を焼いて撤退したことになっている。

疫病の流行について、武帝紀では、敗れた後に疫病が流行し、そのために曹操が撤退を決意した、という記述になっている。いわば、疫病は撤退の理由ではあっても、敗北の理由ではない、という書き方である。一方、賈?伝と郭嘉伝では、疫病の流行が曹操軍敗北の直接の原因とされている。ただ、疫病の流行などというものは、どの時点で発生したなどと明確には決めがたく、また一定の期間にわたって持続するものである。したがって、敗北の前後にわたって疫病は流行していた、というのが真相で、武帝紀と賈?伝・郭嘉伝で記述が違うのは、言葉の綾というものかもしれない。

風についての記述は、賈?伝の「南風」というくだりだけである。武帝紀にも風についての記述はあるが、これは撤退中の出来事であり、火攻めとは無関係である。

2、『呉書』

<呉主伝>
呉主とは、後に呉の皇帝となる孫権のことである。呉軍は、劉備軍と赤壁で曹操を破った。曹操は残った船に火をつけ、撤退した。曹操軍の兵は、飢えて病気にかかり、大半が死んだ。

<周瑜伝>
呉軍と曹操軍は赤壁で遭遇した。このとき、曹操軍内部にはすでに疫病が発生していたので、曹操軍は最初の交戦で敗退した。その後、黄蓋が火攻めを行った。折りしも強風が猛り狂い、全ての船に火が移った。
注:(黄蓋の火攻めの時、)ちょうど東南の風が激しく吹いていた。

<黄蓋伝>
黄蓋は赤壁で曹操軍の進出を食い止め、火攻めを進言した。

<魯粛伝>
曹操が大敗を喫して逃走した。なお、他に呂蒙・程普・韓当・周泰・甘寧・凌統の各伝にも、ほぼ同様の記述がある。

『呉書』では、周瑜伝・黄蓋伝に火攻めに関する記述がある。呉主伝には、曹操が撤退する際に自軍の船に火をつけた、とあるだけで、呉軍の火攻めに関する記述は無い。だが、「残った船」というのが「火攻めで焼け残った船」という意味である可能性は高い。その場合、曹操が呉軍の追撃を阻むために軍船を焼いたのだ、と解釈できる。魯粛伝やその他に関しては、記述が簡潔に過ぎるため、なんとも言えない。

風に関しては、周瑜伝のみに記述がある。黄蓋の火攻めの時に、東南の風が激しく吹いて火攻めの威力が増した、というのがそれだ。この部分は先の賈?伝と共通している。

疫病の流行に関しては、呉主伝と周瑜伝に記述がある。魏書と似たパターンで、呉主伝では敗北→疫病の流行、周瑜伝では疫病の流行→(それが原因での)敗北、という順序になっている。だが、これについても前述したように、疫病は敗北の前後にわたって蔓延していたと考えれば自然であり、特に矛盾点は無い。呉主伝に、曹操軍兵士が飢えて病気にかかった、とあるのは、大敗北によって補給が混乱し、そのために兵士の抵抗力が落ちて病気の流行が激化した、ということなのだろう。想像だが。

3、『蜀書』

<先主伝>
先主とは、蜀の初代皇帝劉備のことである。ちなみに、二代皇帝劉禅は後主と呼ばれる。劉備と呉軍は赤壁で曹操を破り、その軍船を燃やした。曹操は退却し、両軍は南郡(地名)まで追撃した。その後、流行病で曹操軍に多数の死者が出たので、曹操は撤退した。

<諸葛亮伝>
曹操は赤壁で敗北した。

<関羽伝>
孫権は軍を派遣して劉備を救援し、曹操を防いだので、曹操は撤退した。

『蜀書』では、火攻めに関する記述は先主伝にしかない。「曹操を破り、その軍船を燃やした」というのは、火攻めのことを意味するのだろう。

風に関する記述は無い。

疫病に関しては、先主伝に武帝紀・呉主伝と同様、曹操敗北→疫病流行→撤退の順で記載がある。

ところで、『蜀書』関羽伝では、通常呉の自衛戦争だったとみなされている赤壁の戦いが、劉備が曹操と戦い、それを孫権が助けた戦いであるかのように記述されている。先に触れた『魏書』武帝紀でも、劉備一人が曹操を破ったかのように書かれており、いわば、「曹操対劉備+それを助けた孫権」という構図が描かれている。これはなぜなのだろう。

これは想像に過ぎないが、この『正史三国志』の作者である陳寿が蜀の出身だ、ということに関係があるのではなかろうか。蜀の出身であるために、蜀の初代皇帝劉備に身びいきをしてしまい、つい彼の業績を過大に書いてしまうところがあるのかもしれない(と想像する。証拠は無いのでなんとも言えないが)。

また、このようにも考えられる。黄蓋軍と劉備軍が別方向から曹操軍に対して火攻めを実行した、ということだ。武帝記に「劉備が先に素早く火を放てば我々は全滅だっただろう」という記述がある。これは劉備が黄蓋とは別々に火攻めを行い、劉備軍が火を放つのが黄蓋に比して遅かった、という事を示唆しているのではないだろうか。そして、本伝は記述が簡潔であるため、武帝記では黄蓋の火攻めについては省略されてしまったのではないだろうか(別の所で書いたから省略しても構わないと陳寿は考えたのかもしれない)。

 

正史と演義において最も違うのは、風に関する描写である。正史では風に関する記述は全体的にそっけない。描写があるのは賈?伝と周瑜伝だけ。それも「激しい南風が吹いた」などと、一言くらいしか触れられていない。一方で、演義では周瑜が東南の風が吹かないことを気に病んで、病気になってしまうくらい、風が重要視されている。しかも、それを解決するのは演義の主人公格である諸葛亮。彼が神に祈って東南の風を呼ぶシーンは、『演義』赤壁の戦いの中で最大のハイライトである。演義では、風が戦いのシーンを盛り上げる設定として最大限に利用されているのである。