3、苦肉の策・連環の計

 

演義の記述
さて、呉(ご)の都督(ととく)・周瑜(しゅうゆ)が本陣の中にいると、老将軍の黄蓋(こうがい)が突然入ってきた。そこで黄蓋は敵方を火攻めにすることを提案する。周瑜はあらかじめそのことを考えていたらしく、黄蓋に同意する。そこで黄蓋は曹操(そうそう)軍に偽りの降伏をすることを申し出た。
翌日、軍議がはじまると、黄蓋が「降伏するのが良かろう」とか周瑜を「青二才」とかののしるわで、とにかく周瑜が怒って、黄蓋に死罪を申し渡す。しかし、さすがに周りがとめて、黄蓋は鞭打ち百回の刑となった。そこで、実際鞭打ちが行われたわけだが、黄蓋の背中の肉は裂け、何度か気を失うというありさまで、見舞った人までが涙を流していた。

そこで、黄蓋は?沢(かんたく)という男を通じて、曹操側に降伏を申し出る。さすがの曹操も疑ったらしいが、?沢の説得が功を奏して、曹操も信じることになった。このときには、曹操側から呉側にスパイにいっていたものもいた。そして彼らが黄蓋が百叩きにされたことを見たらしく、そのことを報告したことも曹操が黄蓋の降伏を信頼する原因となった。これには甘寧という武将が一役買っていた。

さて、周瑜の方は黄蓋に偽の降伏をさせて相手を火攻めにする計略をすすめていたのだが、さらに効果を大きくする策も練っていた。それが連環の計である。
曹操の方は、一度は黄蓋の降伏を信頼したもののどうも当てにしないらしく、周瑜の友達の蒋幹(しょうかん)というものを呉の方に潜らせてみた。ところが、蒋幹を迎えた周瑜の方は顔を見るなり、蒋幹を幽閉してしまう。そこで、隣の部屋にいたのが、?統(ほうとう)という秀才である。蒋幹は?統と意気投合して曹操側の陣に行くことになる。曹操の方も優秀な人材には目がないらしく、?統に自分の水軍について評価してもらうのである。そこで?統は

「(曹操軍の)水軍に病人が多いから、大小船を組み合わせて、広い板をひけば、いかなる浪風もおそるるに足らない。」

といった。すると曹操はこれをうけいれて、船をつないでしまうのである。

そうしておいて、諸葛孔明は、火攻めに有利な東南の風を吹かせることに成功し、火攻めの準備は整った。

T、偽りの降伏を曹操は信じた。
U、曹操軍は船を大小つないだ。
V、火攻めにおあつらえ向きの風も吹いている。

そこに黄蓋(こうがい)の率いる船が降伏すると見せかけて一斉に火をあげて曹操(そうそう)軍に突っ込んでいった。曹操方の船は固まりあい、鉄の鎖でしっかりつなぎとめられていたから逃げようにも逃げられずに炎上していった。
ここで、黄蓋が鞭打ちの苦難に耐えながらも、曹操軍を撃破したのが、苦肉の計といわれるもので、?統(ほうとう)が曹操軍の船をつながせたのが連環の計である。

 

正史の記述
では、まず「苦肉の計」の方をみてみよう。正史の方ではまず、中心人物である黄蓋(こうがい)を見てみよう。すると「火攻めの計略を進言した」とだけあって、黄蓋がむち打たれたとか?沢(かんたく)が密書をもっていって曹操(そうそう)をだましたとかいう記事は全くない。?沢については赤壁(せきへき)の戦いに関する記事さえ全くないのである。

では、曹操側の方はどうか。これもまったくといっていいほど記述がない。そもそも曹操側には赤壁の戦いに関する記述があまり無いのである。

黄蓋については、『周瑜(しゅうゆ)伝』の方にもっと詳しく載っている。『演義』の縮小バージョンと言っていい。それは以下のとおりである。

まず、黄蓋の方から周瑜に火攻めを提案する。そこで周瑜は船を選び出して、薪と草を詰め込み、油を注がせた。前もって曹操の方に手紙を書いて降服したいという偽りの申し入れをしておいて、黄蓋は曹操側へ発進していった。

曹操の方では、黄蓋が投降してくるのだといいあっていると、そこで黄蓋は船を味方の快速艇を切り離して、同時に火を放った。そこにおりもおり、強風が荒れ狂い、曹操側のすべての船に火が燃え移って、岸辺の陣営までもが延焼してしまった。やがて、煙や炎があがって焼け死にしたり、おぼれ死ぬ者はおびただしい数に上り、曹操軍は退却した。

ここで、大事なのは@黄蓋が火攻めを提案したことと、A偽りの降服の手紙をおくっていたことの記述である。

その次に、「連環の計」の方をみてみよう。

まず『演義』の方でこの連環の計の立役者となっている?統(ほうとう)である。ところが、『蜀書・?統伝』を読んでみると、赤壁の戦いに関連するところがまったくないのである。連環の「れ」の字も出て来ないのである。

その他関連する人びとの伝記を調べてみたのだが、連環の計は全く出て来ないのである。ところが、それのもととなったような表現は随所に見られるのである。

例えば、?統が連環の計を進言した際に「曹操(そうそう)軍に病人が多い」というようなことをいっている。正史の『蜀書(しょくしょ)・先主伝(せんしゅでん)(劉備伝(りゅうびでん))』を見てみると、

曹公(曹操(そうそう)のこと)と赤壁(せきへき)において戦い、大いにこれをうち破って、その軍船を燃やした。先主(劉備)と呉軍は水陸平行して進み、追撃して南郡に到着した。このときまた流行病がはやり北軍(曹操軍)に多数の死者が出たため、曹公は撤退して帰った。

とあって、赤壁の戦い後、流行病が曹操側ではやったことが、書いてある。

そして、火攻めを実行した黄蓋(こうがい)のセリフを見てみると

「ただ見てみますに、曹操の軍の船艦は、互いに船首と船尾とがくっつき合った状態でありますから、焼打ちをかければ敗走させることができます。」(『呉書(ごしょ)・周瑜(しゅうゆ)伝』より)

とあって、しかもその後に、黄蓋が大きな船の後ろに快速艇をつないで出撃した、とある。これを見る限り連環の計は、曹操側ではなく逆に呉側のものであったことになる。

『演義』ではここらへんの話をうまく取り混ぜて、話をつくったのであろう。また?統出現のいい伏線ともなっている。