2、諸葛亮 対 周瑜

 

演義の記述
赤壁の戦いにおいて、演義の記述では諸葛亮を引き立たせるため、「周瑜が諸葛亮・劉備(りゅうび)に対し敵意を持ちたびたび殺害を企てるが、その都度失敗に終わる」という記述が度々出てくる。ここでは、その具体的内容を箇条書きにして挙げようと思う。
  • 周瑜は諸葛瑾(しょかつきん)(諸葛亮の兄)に「諸葛亮が孫権に仕えるよう説得しろ」と命じる。瑾は伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の故事(兄弟は死ぬまで別れなかった)を持ち出して説得するが、亮は「劉皇叔(りゅうこうしゅく)は漢の一門であるから、兄上も私と共に仕えれば良い」と反論、瑾は説得できずに帰る。
  • 周瑜は諸葛亮に、「曹操(そうそう)の兵糧は聚鉄山に集められているから、奇襲して兵糧を奪ってほしい」と要請、諸葛亮は快諾して帰る。魯粛(ろしゅく)が諸葛亮のもとを訊ねたところ、諸葛亮は「周瑜は水上の戦い、貴公(魯粛)は陸上の戦いしかできない」と言う。


    これを聞いた周瑜は怒るが、再び訪ねて来た魯粛に対して諸葛亮は「周瑜の要請は暗殺の下心であろう、陸路の奇襲は必ず失敗するから、水戦で曹操を打ち破るべきだ」と見破ってみせる。周瑜は嘆息し、あきらめた。


    周瑜は劉備を暗殺しようと企て、彼の使者としてきた糜竺(びじく)に、「軍略について相談したいことがあるので、来てもらいたい」と要請する。劉備側では招きに応じるか賛否両論あったが、結局劉備自ら関羽(かんう)を共にして行くことになった。


    周瑜は盃を落とすのを合図に殺そうと企てたが、劉備の背後に立つ関羽を見て、「顔良(がんりょう)・文醜(ぶんしゅう)を討ち取った男か」と恐れ、結局あきらめる。
  • 周瑜は軍議の席に諸葛亮を招き、「水上の戦いには矢が不可欠であるから、ぜひとも十日以内に十万本の矢を作って頂きたい」と要求する。それに対し諸葛亮は、「三日で作る」と明言、「違反したら重罰に処されても良い」という誓約書まで入れる。


    周瑜は「もともと不可能なことを要求し、軍法にかけて彼を処刑する」という意志であったが、諸葛亮がさらに期限を短くしたので驚き、魯粛を彼のもとへ派遣する。すると諸葛亮は、訪ねて来た魯粛に船20艘と兵士を用意するよう要求する。


    霧の深い夜、諸葛亮(しょかつりょう)はその船団を率いて曹操(そうそう)軍が陣取っている北岸に迫り、兵士たちに鬨の声を上げさせる。曹操は「敵の背後には伏兵がいるかもしれない」と疑い、陸上と水上の弩弓手に命じて、雨あられと矢を浴びせかける。


    諸葛亮は船に充分矢が刺さったのを見ると、兵士たちに「丞相の矢をありがたく頂戴する」と叫ばせ、速やかに引き上げた。曹操は後悔したが、後の祭りであった。(「十万本の矢」の故事)
  • 周瑜(しゅうゆ)が決戦の時を待っていると、諸葛亮が約束した通りに強い南東の風が吹き出した。これを見て周瑜は「諸葛亮は妖術を使う恐ろしい男だ」と脅え、徐盛(じょせい)・丁奉(ていほう)を呼び、直ちに諸葛亮を追って殺すように命令する。


    徐盛・丁奉の追跡は速く、諸葛亮の乗った船に迫る。しかし、このことを予期していた彼は趙雲(ちょううん)に命じて護衛に来させていた。趙雲の放った矢は徐盛・丁奉の乗る船の帆を射落とし、諸葛亮の船は見る間に去っていった。


    周瑜(しゅうゆ)は、暗殺計画をことごとく見破られたことに絶望したが、魯粛(ろしゅく)の「東南の風が吹いている今のうちに曹操軍を打ち破るべきだ」という諫言に従い、自軍に攻撃命令を下した。
以上が演義の記述である。これを読むと、「諸葛亮と周瑜は赤壁の戦い当時から対立しあっていた」という印象を非常に強く与える。

 

正史の記述
しかし、正史においてはこのような記述は一切出てこない。(蜀書の「諸葛亮伝」・呉書の「孫権伝」・「周瑜伝」・「魯粛伝」を調べた)

では、演義でなぜこのように「諸葛亮と周瑜の対立」がことさらに強調されるのであろうか?理由は2つ考えられる。

1つは、「諸葛亮の智謀を際立たせるため」である。蜀漢を正統とする演義では、諸葛亮は「完全無欠のヒーロー」であり、正史で「劉備(りゅうび)の使者として東呉に使者として赴いた」(諸葛亮伝)とある以上、この戦いで彼を活躍させない法はなく、その良い「だし」が周瑜である。

もう1つは「赤壁の戦い後の劉備と孫権の関係」である。これについて詳しく説明しようと思う。

劉備(りゅうび)は赤壁の戦い後、荊州南部の4郡を手に入れる。しかしこの地は長江の南にあり、中原から離れすぎている。そう思った劉備は、孫権(そんけん)の妹と婚約を結び、建業に赴いた際、荊州北部の借用を孫権に申し出る。

これについて、家臣の大部分は、「劉備は危険な男だから、要求に応じるべきではない」と進言、周瑜(しゅうゆ)はその意見の急先鋒であった(「周瑜伝」に詳しい)。しかし、魯粛(ろしゅく)だけは「荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操(そうそう)を退けるのが良い(「魯粛伝」)」と主張、結局孫権はその意見に従う。

この意見の相違はそれ程大きなものではない。しかし、周瑜が常に劉備・諸葛亮(しょかつりょう)を警戒していたことは事実であり、このことを物語風に誇張したものが「演義」である、このように私は考える。