2、諸葛亮 対 周瑜
演義の記述 |
赤壁の戦いにおいて、演義の記述では諸葛亮を引き立たせるため、「周瑜が諸葛亮・劉備(りゅうび)に対し敵意を持ちたびたび殺害を企てるが、その都度失敗に終わる」という記述が度々出てくる。ここでは、その具体的内容を箇条書きにして挙げようと思う。 |
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以上が演義の記述である。これを読むと、「諸葛亮と周瑜は赤壁の戦い当時から対立しあっていた」という印象を非常に強く与える。 |
正史の記述 |
しかし、正史においてはこのような記述は一切出てこない。(蜀書の「諸葛亮伝」・呉書の「孫権伝」・「周瑜伝」・「魯粛伝」を調べた) では、演義でなぜこのように「諸葛亮と周瑜の対立」がことさらに強調されるのであろうか?理由は2つ考えられる。 |
1つは、「諸葛亮の智謀を際立たせるため」である。蜀漢を正統とする演義では、諸葛亮は「完全無欠のヒーロー」であり、正史で「劉備(りゅうび)の使者として東呉に使者として赴いた」(諸葛亮伝)とある以上、この戦いで彼を活躍させない法はなく、その良い「だし」が周瑜である。 もう1つは「赤壁の戦い後の劉備と孫権の関係」である。これについて詳しく説明しようと思う。 |
劉備(りゅうび)は赤壁の戦い後、荊州南部の4郡を手に入れる。しかしこの地は長江の南にあり、中原から離れすぎている。そう思った劉備は、孫権(そんけん)の妹と婚約を結び、建業に赴いた際、荊州北部の借用を孫権に申し出る。 これについて、家臣の大部分は、「劉備は危険な男だから、要求に応じるべきではない」と進言、周瑜(しゅうゆ)はその意見の急先鋒であった(「周瑜伝」に詳しい)。しかし、魯粛(ろしゅく)だけは「荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操(そうそう)を退けるのが良い(「魯粛伝」)」と主張、結局孫権はその意見に従う。 |
この意見の相違はそれ程大きなものではない。しかし、周瑜が常に劉備・諸葛亮(しょかつりょう)を警戒していたことは事実であり、このことを物語風に誇張したものが「演義」である、このように私は考える。 |