1、孫権の意中

 

赤壁開戦にあって、孫権の考えはどうだったのか。「演義」では、孫権が開いた軍議の席で、張昭をはじめとする多くの非戦派に、魯粛一人が「開戦すべきだ」として反対し、孫権を必死に説得するが開戦を決意させるに至らず、諸葛亮、周瑜と共に三人がかりで何とか決意を促した、となっている。演義では、諸葛亮は非戦派の重臣を全員説き伏せたり、孫権を安心させる程の策を自ら提示したりと、開戦に大きな影響を与えている。しかし「正史」ではどうだったのか。ここでは赤壁前に出てくる四人の記述の相違点を挙げておく。

 

周瑜伝

軍議の席にいた周瑜が非戦派である家臣達を論破した上で、孫権を説得し、開戦を決意させている

☆魯粛→この記述では出てこない
☆諸葛亮→孫権と同盟するための使者として登場

魯粛伝

軍議の席で張昭らが非戦降伏論を主張しているとき何も言わず、後に孫権と二人になったときに自分の意見を述べ、開戦へ踏み切らせている。

 ☆周瑜→魯粛が周瑜に呉水軍の総指揮を任せるように孫権に進言したため、
       任務先から呼び戻され、軍団長に任命されている。
 ☆諸葛亮→「周瑜伝」と同じ

諸葛亮伝

諸葛亮自身の意志で呉に向かい、迷っていた孫権を決意させた。その後戦には出てこずに、劉備の元に帰っている。

 ☆魯粛→説得のシーンには出てこない。決意後は武将として登場している。
 ☆周瑜→決意後、武将として登場

孫権伝

始めから開戦の方に傾いた考えを持っており、魯粛、周瑜の2人の意見がきっかけとなって開戦を決意する(後記)。

 ☆魯粛→非戦派の重臣の意見に反対し、開戦派としての意見を出している。
 ☆周瑜→非戦派の重臣の意見に反対し、開戦派としての意見を出している。
 ☆諸葛亮→同盟を結ぶための使者として登場している。

@周瑜伝曰く、

「曹操は、漢の丞相の名をたてにいたしておりますが、その実は漢に敵(あだ)をなす賊徒でございます。(一方)将軍様は、すぐれた武略と大きな才能を備えられ、加えて父上様兄上様の烈(いさおし)を基(もとい)に、江東の地に割拠されましたが、その土地は数千里に及び、兵士は精鋭で十分にお役に立ち、英俊の士たちはなすことあらんと心に願っておるのでございますから、天下を思うままに闊歩(かっぽ)して、漢の王室のために害をなす者どもを除き去られるべきなのでございます。ましてや曹操は自ら死地へ飛び込んでまいったのでございますのに、それを迎え入れられるなどということがあってよいものでしょうか。(中略)願わくは瑜(わたくし)めに精鋭兵三万をおあずけくださり、夏口まで兵を進めさせてくださいますように。必ずや曹操を打ち破ってお目にかけます。」とある。

A魯粛伝曰く、

「ただいま天下の英傑たちが各地に蜂起いたしておりますが、あなたの資質と才能は、こうした時にこそふさわしいものであります。急ぎ帰って年を取られた母上を迎えられますよう。東城にあって無為に過されるべきではございません。近くでは、鄭宝(ていほう)なる者が、ただいま巣湖におって、一万余の衆を擁しております。彼のおります土地は肥沃で、廬江(ろこう)のあたりの人々は多くそのもとに身を寄せております。われわれも当然、彼に身を寄せるべきでありましょう。その形勢を見てみますに、さらに多くの人が集まりそうです。時を失ってはなりません。あなたも急がれますように。」とある。

B諸葛亮伝曰く、

『諸葛亮は孫権を説得していった、「天下は乱れに乱れ、将軍は挙兵して江東を所有され、劉(備)豫州もまた漢水の南方で軍勢をおさめて、曹操とくつわを並べて天下を争っておられます。いま曹操は、大乱を切り従え、ほぼ平定し終わり、さらに荊州を破って、威勢は四海を震わせております。英雄も武力を用うる余地なく、そのために劉豫州は遁走してここに来られたのです。将軍よ、あなたも自分の力量をはかって、この事態に対処なされませ。もしも、呉・越の軍勢をもって中国に対抗できるのならば、即刻国交を断絶されるに越したことはありませんし、もしも対抗できないのならば、兵器甲冑を束ね、臣下の礼をとってこれに服従なさるがよろしいでしょう。いま将軍は、外では服従の名義に寄りかかりつつも、内では引き伸ばし政策をとっておられます。事態が切迫しているのに決断をお下しにならないならば、災禍は日ならずしておとずれるでありましょう。」孫権が言った。「もしも君の言うとおりだとしたならば、劉豫州はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」諸葛亮は答えた。「田横(でんおう)は斉の壮士にすぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎ込むのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまり天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」孫権はむっとして、「わしは呉の全部の土地、十万の軍勢をそっくりそのままもちながら、人の制肘(せいちゅう)を受けるわけにはいかない。わしの決断はついた。劉豫州以外に曹操に当たれる者はいないのだが、しかし劉豫州は曹操に敗れたばかりだ。この後、どうして難局にぶつかることができようぞ。」と言った。諸葛亮は次のように述べた。「劉豫州の軍は長阪(ちょうはん)において敗北したとは申しても、現在、逃げ帰った兵と関羽の水軍の精鋭一万人。劉gが江夏の軍勢を集めればこれまた一万人を下りません。曹操の軍勢は遠征で疲れきっております。聞けば、劉豫州を追って、軽騎兵は、一日一夜、三百里以上も馳せたとのこと。これは、いわゆる『強弓に射られた矢もその最後は魯のきぬさえ貫けない』と言う事態です。だから、兵法では、これを嫌って、『必ず上将軍(前軍の将)は倒される。』(『孫子』軍争篇)と言っております。そのうえ、北方の人間は水戦に不慣れです。また荊州の人間が曹操になびいているのは、軍事力に圧迫された結果であり、心から従っているのではありません。いま、将軍がほんとうに勇猛なる大将に命じて兵士数万を統率させ、劉豫州と計をともにし力を合わせることがおできになるならば、曹操の軍勢を撃破するのはまちがいありません。曹操軍は敗北したならば、必ず北方へ帰還いたしましょう。そうなれば、荊・呉の勢力は強大になり、三者鼎立の状況が形成されます。成功失敗のきっかけは今日にあります。」孫権は大いに喜び、すぐさま、周瑜・程普・魯粛ら水軍三万を派遣し、諸葛亮について先主のもとへ行かせ、力を合わせて曹公を防がせた。』とある。

 

今までのものを見ると書かれている内容が書によって大分ずれていることが分かったと思う。それぞれの伝で孫権を説得した人が違い、それらをつなぎ合わせると時間的に矛盾が生じるため、全てが正しいとは考えにくい。裴松之が言うには、「それぞれの国の史官が自分が伝聞したことを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して、手柄を独り占めしようとしている」からこのような矛盾が生じるらしい。「演義」や「諸葛亮伝」では蜀が主人公だから諸葛亮の功績が大きく、「周瑜伝」「魯粛伝」などで、孫権を説得しているのは本人だけで他の人が出てこないのも、彼らが中心だからであろう。